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「ねえ、あなた。


 立派な店の主人っていうのは、


 厨房なんかに入り浸ってないで


 椅子にどっしり座ってるものよ」



『緑の乙女亭』の主人は、妻からそう言われる度に、


どことなく、そわそわした様子でうなずいた。

「うん。そうだな。君の言う通りだよ」



もちろん、本当はそんな事、ちっとも思っていなかった。


厨房を離れる気なんてまったくないのだ。



働き者というよりは、ただの食いしん坊だった。


美味しいものが食べたいのだ。



雇った料理人達は、確かに優秀だったけれど、


料理の腕は自分より下だった。


特にビスケットは、ひどいもので、


あのパリッとした感じを出せるものは一人もいなかった。



不味いビスケットを食べるくらいなら、自分で焼いた方がましだった。


ついでに客に出す分も、自分と同じものを焼いてやってもいい。


その方が儲かるのだから、尚更いい。


金が貯まっていく事は、


美味しい料理を食べるのと同じくらい素敵な事だ。



そんなわけで、『緑の乙女亭』の主人は、


その日も、朝から厨房にこもり、太った体に汗をかき、


鼻歌をうたいながら大量のビスケットを焼いていた。



出来上がったビスケットを一枚手に取り、


念入りに眺め、口の中に放り込んだ。



「うん。旨い。


 おーい。焼きあがったぞ。持っていってくれ」


声をかけられた店員は、すぐ飛んできて、籠にビスケットを詰め始めた。



「さっき焼いた分はどうなった?」


「もう随分前に売り切れてます」


「そうか。今日も客が多いみたいだな。


 みんなイチが絵を描いてるところを見物してるのか?」



店員は目を輝かせてうなずいた。


「はい。すごい人気です。


 絵を描く邪魔にならないように、店員がずっと見張ってなきゃいけないほどです」


「ふふん。そうか」


満足そうに呟いた『緑の乙女亭』の主人だったが、


ふと何かを思いつき、急に心配そうな顔をすると店員に尋ねた。



「エームの様子はどうなんだ?


 また昨日みたいに、途中で飽きたなんて言ってないか?」



店員はにっこり笑ってうなずいた。


「はい。今日は我慢強くモデルをされてますよ。


 このビスケット、店に出してきていいですか?」



「ああ。いいぞ。


 いや、ちょっと待ってくれ。


 エームにもいくらかビスケットを持っていってくれ」



エーム用のビスケットを取り分けようと


皿にビスケットを乗せ始めた主人に、店員は恐る恐る言った。



「エームさんは、今日はビスケットはいらないと言っていましたが」


主人は驚いた。


「エームが?どうしてだ?」


「さあ?」


店員は困ったように首をかしげた。



『緑の乙女亭』の主人は、眉を寄せて考え込むと、


疑い深い視線を店の方へと向けた。



「変だな。


 あのエームが大好きなビスケットも食べず、


 朝からじっとモデルをして文句も言ってないだって?


 ふん。やっぱりおかしいぞ。


 ちょっと様子を見てくる。次のビスケットを焼く準備をしといてくれ」



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