さて、京都シリーズ第4弾です。
お好きな方のみ先へ御進みください。
翌日は修学旅行でも歩いた哲学の道
方面です。ここは当時とってもがっかり
した思い出があります。「哲学をしながら
水際を散策する」という境地を当時の私は
理解することができなかったのだと思います。
今回は歩きながら、過ぎた人生を振り返った
り、沿道にあるお店やレストランの品定め
をしたり、立ち寄る予定の寺院を訪ね歩いたり
前から来る人の人相や気配から、その人
の人生や、人となりを想像したり、もっといえば
そのご夫婦の力関係や夫婦っぽくてもやっぱり
人に言えない関係かな~とかを想像したり、
すれ違った人たちごめんなさい。
そんなわけでまったく
退屈しませんでした。あれからうん十年、ま
あ境地もそれなりに深まったのでしょうか。
「飲んだワインの数だけ心が豊かになる」
と言ったのは誰あろう私です。
ブログを読んだ皆さんどんどん引用して広めて
下さい。うまいワインは感性を豊かに育んで
くれますし、まずいワインはそれぞれこの次は
失敗しないようにしようと打たれ強く、不屈と
七転び八起きの精神が育まれるのです。
ちなみに世界の観光名所の3大がっかりは
シンガポールのマーライオン
コペンハーゲンの人魚姫
ブリュッセルの小便小僧
だそうです。何事も過度な期待は禁物ですね。
この日いくつか立ち寄らせていただいたお寺の中で
際立っているように感じたのは永観堂禅林寺と
法然院でした。
永観堂禅林寺はご本尊見返り阿弥陀様で有名で
そのいわれは永観堂のウイキペディアでは
永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に
薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も
盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動
の先駆者といえるであろう。
禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が
住したことに由来する。なお、「永観堂」は普通
「えいかんどう」と読むが、「永観」という僧の名は
「ようかん」と読むのが正しいとされている。
禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左
(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。
この像については次のような伝承がある。
永保
2 年(1082年)、当時50歳の永観が日課の
念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道して
いたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、
永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを
止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、
「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像
はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの
姿で安置されているのだという。
と書かれています。
普通、仏像は穏やかな立ち姿や坐像で動きを表したものが無い
と思いますが、この阿弥陀様は「永観、遅いよ早くきーなはれ」
とお声をかけられた瞬間のお姿です。
永観さんはさぞ驚かれたと思いますが、お寺のサイトによれば、
東大寺開創供養の時、一老翁が捧げた阿弥陀像を宮中で祀り
になっていたが、やがて東大寺に下賜された。(『東大寺要録』)
この阿弥陀如来像は東大寺宝蔵に秘蔵されていたのだが、
たまたま永観はその尊像を拝する機会があり、尊像の奥深いと
ころから呼びかける声を聞いた。永観は衆生済度こそ、この仏
の本願であり宝蔵にしまっておくのはもったいない、と嘆いた。
これが白河法皇の耳に入り、永観が護持し、供養することとな
った。後年、永観が東大寺別当職を辞して、尊像を背負って京
に入る際、東大寺の僧がそれを取り戻そうと追いかけて京都の
木幡まできたところ、尊像は永観の背に取り付いて離れず、
僧たちはあきらめたと言い伝えられている。
人々の中に入って、救済を実際に行われる願いを
具現する手段として、永観さんを見出されたのか、永観さん
が衆生救済事業の象徴としてこの御像を見出されたのかは
わかりませんが禅林寺は今で言う社会福祉事業を手がけて
来たそうです。後代には今の京都府立病院の前身にあたる
療病院の設立につながっています。
もみじの名所として「秋は紅葉の永観堂」のフレーズでも
有名ですね。
永観堂ウエブサイトより