大河ドラマ「豊臣兄弟」、
いよいよ本能寺の変の巻です。
日本史上最大の謎のひとつと
されるこの事件、
今回も新たな黒幕の登場で
興味津々ではございますが、
ここでご紹介したいのは、
主人公「豊臣秀長」に最初に
着目した堺屋太一氏の
「豊臣秀長〜ある補佐役の生涯〜」
にある、本能寺の変の分析です。
官僚であり、政治家であり、
作家であり、
団塊の世代の名付け親でもあり、
1970年の大阪万博仕掛人でもあった
堺屋氏によるこの本は、
歴史書というより
ビジネス書の趣です。
豊臣家とは、
今で言えば中卒の若者が
勢いのある中堅企業に入り、
若き社長のもと、がむしゃらに働いて
出世していき、子会社を任される。
ところが、親会社がいよいよ大企業になり、
さらに勢力を伸ばしていくときに
社長が急逝。
そこからのたった3年で彼らが市場を
席巻していくことに…。
⇓
「どこかの大企業の子会社だった
中堅企業が、
3年の間に事業規模が10倍になり、
従業員が1万人から10万人になり、
かつての親会社をはじめ
数々の一流大企業を買収して
足下に収める幸運に恵まれたとしたら…」
本能寺の変以降は
いわばこのような状況になるわけですね。
そこでどれほど弟秀長が秀吉の力に
なるのでしょうか!
それは置いといて。
堺屋氏の本能寺の変とその後に
ついての所見を拝見してみましょう。
堺屋氏は、本能寺の変の
原因については言及しておらず、
さほど重視していない模様。
それよりも。
「本能寺の変における明智光秀は、
意図の秘匿性でも行動の迅速さでも
機会の選択や用兵の緻密さでも、
世界のクーデター史に輝くほどに
絶妙である。
光秀の計画性と機会の捉え方、
水も漏らさぬ配備等は流石である。
やっぱり明智光秀十兵衛は
凡庸な男ではなかった。」
と、絶賛しているものの、
その後光秀がなぜあっさり死んで
しまったのか。
本能寺の変のあとの明智軍は
京を抑え、朝廷の覚えもめでたく、
光秀直属の精鋭が
15000人もいたうえに浪人たちも
抱え込んでいたし、
信長の軍資金も奪って
資金も潤沢だった。
秀吉軍は毛利攻めでクタクタ、
軍資金も使い切っていたので、
決して彼らが強くて有利だった
訳ではないのだ。
光秀の敗因は、
「綿密な計画のもとになっていた
世の中の見方が間違っていたのだ。
光秀は、もうこの世には存在しない
伝統と慣例を頼りにし、
多くの人が感じてもいない憎悪を
代表しようとしていたのである。」
つまり、信長は悪いやつ、
だから彼を倒せばみんな自分に
味方してくれるだろう。
と思い込んで、クーデター成功後も
何もしなかったのだ。
「光秀は、その意図と予想される
結果を知らせる使者を出すことが
できたはずである。
だが、光秀がそれを試みた形跡は
全くない。
用兵の緻密さに比べて外交上の
手抜かりは信じがたいほどに大きい。」
毛利にも上杉にも、
北条や長宗我部にも、
配下の細川、筒井にさえ
知らせなかった。
片や秀吉軍は毛利と和議を整えて
中国大返し、
そのあいだにも秀吉は大量の
手紙を書いて各武将に送り、
調略を重ねていた…。
「光秀の計画は緻密であり、
行動は迅速であり、
用兵と指揮は巧妙だった。
だが、その前提とした基本は
全く違っていた。
世の中は変わり、
伝統と慣例は値打ちを失って
いたのである。」
人々は、伝統や慣例などではなく、
これから展開していく新しい時代の中で
自分が有利に生き延びる道を探し、
必ずしも明智につかなくてもよい、と
判断したわけである。
深い教養と明晰な頭脳を持つ
明智光秀、
こんな分析をされたらますます
切ない感じ。
戦国時代は命がけですが、
マーケティングや経営のヒントが
てんこ盛り、
だからこそ常に人気の時代なのでしょう。
要潤さんと小栗旬さんも
見納めです。
そしてますます「補佐役」
秀長の存在が重くなってきます。
秀長は116万石を得、
従二位権大納言の地位に至ります。
秀長より多くの禄を得たのは
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
くらいしか見当たらず、
死ぬまで多くの人々に慕われ続けます。
それなのに、
業績、才能、生涯についての
記述がきわめて少ない人物でも
あるのです。
「きわめて脆弱な組織の中
終始よき補佐役を勤め抜いたこの人は
日本史上稀に見る存在であり、
現代において
もっとも望まれる人材だったような
気がする。」
