最近物件や法人の話メインでしたが、ここでちょっと思うことを書きます。
社内で評価される人とは
私はサラリーマンしながら不動産賃貸業で合同会社を設立しましたが、その勤めている会社で最近「評価される人になるには」といった内容の本が、社内で読むように回ってきました。
ネットでも評価されるには、出世するためには、みたいな記事もよく見かけます。
一方で管理職は罰ゲームといった内容の記事も多いですが。
ただ私は若い頃から「その評価する人間は、私を図れる物差しを持ってるんか?」と思っています。
これは年いって色んな挫折して自分の伸びしろが見えてかなり丸くなって(と思う)も、未だにそう思ってます。
ただ人事ってポストが空いたり新設されたタイミングにその一番近いとこにいてられるか、業績の悪い部署を誰も責任取りたがらないので、こいつにやらせて旨くいけばラッキーという名の大抜擢もあります。つまり、どれだけ人事部が頑張っても100%実力主義の公正な人事なんてものは存在しない(はず)です。
それにちょっとかじったアドラー心理学に倣って「私の評価は私の評価をする人の問題であって、私の問題ではない」と思うようにしています。アドラー心理学は身につくまで修業ですが。
一応一時期は拠点長として会社の経営会議に参加していました。
その拠点が閉鎖することになり、そこから役職は何段階かわからないくらい落ち、負け惜しみもあるかもしれませんが、その時「あ、やっぱり私が来たいところはここじゃない」と思えました。
生き方のバリエーション
その頃から収益不動産を所有して、同じような物件を探しているオーナーさんとも交流が増えてきてまず思ったのは「生き方のバリエーションが豊富」だということです。
サラリーマンやりながらの人もたくさんいるけれど、専業大家、会社の社長はもちろん、サーフィン大好きだから宮崎に移住して、サーフィンばっかやってるから家賃はそのままプールして、お金が貯まったら大阪に物件買いに来る人や、中には風俗店のオーナーで属性高めるために不動産業やるという人もいます。
少し話はそれますが、私は以前に、地方にある日本でも最大級のメーカーの中で仕事したことがあります。
万単位の人が働いていましたが、その時に感じたのは「全員労働者」であることです。「労働者意識を持っている人」とも言えますが。
「あーGW終わったぁ。次の大型連休は夏かぁ、長いなぁ。」とか言いながら次の休みまでなんとか頑張る人や、「定年まで勤め上げ、年金もらうようになっても、孫に小遣いやったりするには警備員でもしないといけないだろうな。」という人など、
「労働を提供して、その対価で生活する」ことに何の疑問も持たずに一生を過ごす人が多い、いやほぼ全員そう考えていることに驚きました。
そこで「収益不動産を購入して、なるべく自分の労働=人生を切り売りしてお金を稼ぐことから脱却しようと目論んでいる」という異文化を一滴でも垂らそうものなら、生態系を変えてしまうんじゃないかと思うくらい。
もちろん私が出会ったのはほんの少しの人ですし、違う考え方の人もいるかもしれない。経営層には会えていないので、そちらは違う次元の覚悟もあるでしょう。
いや、ひょっとすると収益不動産をやってなかったら、私も同じだったかもしれません。
若いときに「金持ち父さん貧乏父さん」を読んで、「へぇ」とは思ったけれど、自分事とは思えなかったことも覚えています。
生き方のバリエーション
ただ、いま私が知る大家さんたち数人の生き方のバリエーションの豊富さと、万単位の人が働くメーカーの製造現場の生き方のバリエーションの少なさの対比が、すごく違和感を感じました。
月~金の9時~18時まで拘束されてもらうお金と、入居者が決まったら、やることがほとんどない家賃(もちろんトラブル発生するリスクも多々あります)が同じくらいか少し多くなったら、もう住むところもやることも昼飯食べる時間も、将来どう生きるかも決められるようになるでしょう。
それは大変な事でもあるでしょうが、可能性はすごく広がるだろうな、と思っています。
そしてそんな風に考えるようになると「忙しい忙しい」という人は労働力を提供してお金を稼ぐことに何ら疑問を持ってないんだと思うようになり、他の人が持ってるものと見比べてマウントを取ろうする人や、好きでもないこと事を我慢してやることが仕事だとか、お金は苦労を伴わないと稼げないと思ってる人たちと、だんだん話が合わなくなってきています。
これが健全なのかどうかはわからないですが、「サラリーマンしながら収益不動産を増やしていったら、だんだん同僚と話があわなくなるよ」と、先輩大家に言われたことを思い出します。