「苦しい」だけが人生じゃない | 仮面浪人失敗からの紆余曲折ブログ

仮面浪人失敗からの紆余曲折ブログ

予備校で一浪したのち、MARCH理工から仮面浪人で阪大薬学部を目指すも失敗。仮面浪人失敗によって背負ったツケを日々払いながら、一歩一歩卒業に向かってゆく


 

 
大学を卒業してからというものの、新たに作成した自作ブログの更新にばかり夢中になっており、こちらのブログの更新がすっかり滞っていた。ただ、張り切って作成したその新ブログの方は開設から1.5年以上経過した現在でさえ地面スレスレの低空飛行を強いられており、倒産寸前の大赤字の運営となっている。その上こちらのブログのアクセス数も気付けば激減しており、今や一日当たりのアクセス数は一桁が当たり前である。そんな中でよくもまあ何千字(時には一万字超)もの記事を書き続けられるなぁと自分でもほとほと感心するわけであるが、まぁ、なんだかんだ言って書くことが好きなんでしょうね。きっと。
 
 

 

 

 
今回お伝えしたいのは↑のような内容である。ただ、ここで述べたいのは
苦しんだ先に→必ず良いことが待っている
という綺麗事ではなく、
適切に苦しんだ先に→必ず良いことが待っている
という機械的で幾分冷たくさえ感じられる現実の方である。
 
私達は、学校、時には家庭等で、以下のような価値観のシャワーを浴びながら大人になっていく。
「苦しみを耐え抜いた先には必ず良いことが待っている」
「地道な努力はいつしか実を結ぶ」
「真面目であることはきっと報われる」
大人の言うことを聞く者は将来立派になる
「止まない雨はない/明けない夜はない」

私は、これらの価値観が全く間違っていると断じるつもりはない。ただ、これらは以下のような正しい形で言い直した方が余程適切であると思われてならない。
適切な苦しみを耐え抜いた先には必ず良いことが待っている」
正しい方向で行われた地道な努力はいつしか実を結ぶ」
結果を出そうと真面目であることはきっと報われる」
「大人の言うことを自らの頭で取捨選択して聞く者は将来立派になる」
適切に物事に対処しさえすれば止まない雨はない/明けない夜はない

学生時代に頻繁に教育されるこれらの価値観であるが、太字で示した部分が省略されていることを見抜けず、ただ盲目的に教科書通りの指針に従っていたのでは、助かるものも助からなくなってしまう(ないし、助けられるものも助けられなくなってしまう)ので、注意が必要である。
良い例なのが“ウサギとカメ”のカメである。カメはかけっこにおいてウサギには勝てない。勝てるわけがない。にも関わらず、「地道な努力はいつしか実を結ぶ」ことを妄信して努力を続けてしまえば、それだけカメの貴重な時間を無駄にしてしまう。それだけならまだ良いが、「ウサギに勝てないのは自分の努力不足の結果だ」という誤った解釈は、カメの視野を極端に狭めてしまう恐れもある。こうなるとカメはより不幸になる。カメは「不足している努力」を埋めようと一生懸命頑張る。するとその間、「かけっこが速いこと」以外の価値に目が行かなくなってしまう。世の中には「かけっこが速いこと」以外にも、「素早く泳げること」「長生きできること」といった数多の価値あるものが存在する。しかしカメには「努力によってウサギに勝てる」という誤った信念により、それらの価値がすっかり見えなくなってしまう。そうして「地道な努力を続けていつかウサギに勝つ」という実現不可能な夢を、脇目も振らずいつまでも追い続けることになってしまうわけである。
カメは、「正しい方向で」地道な努力を積まねばならない。カメにとって、「かけっこで速くなる方向」で為される努力は全く誤った努力である。カメは自分の特性に合った方向で努力を積む必要がある。カメにはカメの良いところがある。折角“カメ”に生まれてきたならば、「どうしたらもっと速く泳げるようになるか」とか、「どうしたらいつまでも元気で長生きできるか」といった方向で人生を輝かす努力を積むほうが余程正しく有意義である。

さて、過去に、“カメ”に生まれてきたくせして必死になって“ウサギ”にかけっこで勝とうとした私はどうなったか。見事に社会からドロップアウトしかけた。しかし、自らが“カメ”であることをきちんと自覚し、“ウサギ”に勝とうとせず“カメ”らしく生きることに決めた今はどうなっているか。ウサギと戦っていた時期より、何倍もの平穏な日々を送れている。これは非常に素晴らしいことである。なにも「ウサギなら勝ち組、カメなら負け組」ということは決してないのである。過度の無理を強いられることなく、自分らしく生きられている、ということの方が、「ウサギに勝つ」ことよりもずっと大切なのである。
 
ここまで語ったところで、同様に「苦しみ」についても考えていきたい。本記事のテーマである。
「苦しみを耐え抜いた先には必ず良いことが待っている」といった文言にも、実は省略されている形容詞の存在していることをお知らせしなければならない。先の文言であるが、正しくは
適切な苦しみを耐え抜いた先には必ず良いことが待っている」
である。これは書いている本人さえ嫌気が差すほどの冷厳な現実なのであるが、ただ「苦しみに耐えている」ことだけでは、事態が改善に向かわないことが世の中には沢山存在するわけである。
何故事態が改善していかないのか。
それは、その人の抱える苦しみの中身が“適切な”苦しみでないからなのである。苦しいことも、誤った苦しみ方をしていると、苦しむ期間が長引くどころか、一向に苦しみが軽減されていかないのである。
従って私は、今を苦しんでいる方々には出来る限り、それが果たして“適切な”苦しみかどうかを各々が内省してくれたらなと考えているわけである。
例えば、先のカメが「一向にウサギに敵わない」ことを嘆きながら毎日をただ苦しんで送り続けたとしても、残念ながらその苦しみの先に良いことは待っていない。何故ならカメの抱えるこの苦しみは、「適切な」苦しみではないからである。カメが本当に苦しむべきなのは、これまで「かけっこが速い⇒価値がある」という一つの偏った思考しか持てなかった自身の価値観を打ち壊し、新たな価値観を持てるよう努めることなのである。これができないカメは、一生「ウサギに勝てない」コンプレックスを背負い込み続けなければならない。

私は過去、大学受験の失敗と、周囲の人と比較して勉強についていけない自身の劣等感に散々苦しめられていた。私ははじめ、その苦しみに耐えた。必死に耐えた。耐えることで何か事態が好転することを期待した。けれどもそのような期待は無残にも裏切られ続けた。それは私が「志望大学に合格しなかった自分には価値がない」とか「しがみついてでも理系の世界で生きていくことが最善だ」といった誤った価値観に囚われていたためである。その価値観が誤った苦しみを生じさせたが、その誤った苦しみに耐えているだけでは一向に改善が見られなかった。事態が好転に向かったのは、自身が長年抱いてきた価値観の転換を自身のプライドに優先させて行ったことがきっかけであった。このプライドに優先させた価値観の転換への試みに対する苦しみは私にとって“適切な”苦しみであった。この“適切な”苦しみに耐えた先には、良いことが訪れたわけである。

従って私は、「漠然と苦しみに耐える」という姿勢は決してオススメしない。それでは人生の苦しみを長引かせてしまう恐れがあるからである。
可能であるならば、各々が「果たしてこの苦しみが続いた先に良いことは待っているのか」「この苦しみは自分にとって“適切な”苦しみなのだろうか」ということを逐一自問し、必要であるならば相応の対策を講じていくことで、今の苦しみをもっと有意義かつ建設的なものにして、更に苦しむ期間を短縮し、良い未来を掴んでいただけたらな、と思っている。