私にとって大学受験とは、“自身の存在価値”を賭けた戦いだった。 | 仮面浪人失敗からの紆余曲折ブログ

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予備校で一浪したのち、MARCH理工から仮面浪人で阪大薬学部を目指すも失敗。仮面浪人失敗によって背負ったツケを日々払いながら、一歩一歩卒業に向かってゆく

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仮面浪人までして戦った“大学受験”で、大敗を喫した 2014年3月。

それから私の人生は、坂道を転げ落ちるように堕落していった。いや、「坂道を転」がるだけではどうも足りなかったようで、転げた先にポツンと開いた、小さな、けれども非常なる深さを持つ“落とし穴”にまで入り込み、更なる堕落を見せていった。

そうした醜態の過程は、本ブログで嫌と言うほど示すこととなった。当時の読者としては、さぞかしウンザリされたことと思う。

 

半ば「自滅」という形を以て、自身の人生を転落へと導いた私とて、当時から、どうして自身がここまで「大学受験」というものにこだわり、その結果如何いかんとらわわれ、人生を破滅させるほどに思い悩んでしまうのかということが、分からなかった。

 

確かに、あれほど“貴重だった10代”を捧げた大学受験で、思うような結果を得られなかったことは、嘆き悲しむに値することだろう。

確かに、小さい頃から盲信してきた「努力は報われる」などという綺麗事の信仰に裏切られた“やりきれなさ”は、大変なものだっただろう。

 

けれども、それらは果たして、

“人生を投げやりになるほど”

“以降何年も自暴自棄な状態に陥るほど”

“己の人生を自ら破滅させようとしてしまうほど”に、苦しまなければならないものだったのだろうか?

 

大学受験失敗時――当時二十歳の私――でさえ、「それは違う」と思っていた。大学受験で結果を出せなかったことは、確かに辛いことだった。ただ、それは“人生を投げやってしまうほど”ではないであろうことを、頭では分かっていた。

 

しかし、頭で分かることと、心底から納得することとは、違った。

当時二十歳の私は、頭では「ここまで嘆くことではない」と知っていながら、一方で、心底より湧き起こるネガティブな感情をコントロールすることはできなかった。

自身に「そこまで嘆くべきことではない」と幾ら言い聞かせたところで、頑固な心底を納得させることができなければ、そんな言葉は無意味以外の何ものでもなかった。私は感情の暴走するままに、七転八倒の苦しみを味わった。そんな自身を、「精神的に幼稚だ」と自ら罵り続けることで、次第に自己否定感を強めていった。そうしてそんな中、「大学の勉強に着いていけない」という問題にぶつかった。原因を調べるうちに「自身のIQの低さ(IQ間の著しい偏り)」が発覚すると、遂に私は己の自我を支えきれなくなった。「くだらないプライドなんて捨ててしまえ」と自らを散々叱りつけておきながら、最後はその「くだらないプライド」を守るために、自身の人生に自ら終止符を打とうとした。まさに「悲惨」そのものであった。

 

あれから7年という月日が経とうとしている。27歳になった私は、当時より幾分、大人になった。

私は就職してより、自分なりに

「なぜ自身は大学受験失敗にあれほど悩まされなければならなかったのか」

という、その原因を追い続けてきた。なぜなら大学を卒業した後の私も、どこか二十歳の頃に抱えていた「精神的幼稚性」を、未だ残している感覚がずっとあったからである。

 

そして遂に、その全容を解明するに至った。2019年7月下旬のことである。

加藤諦三氏の『自分に気づく心理学』という本との出会いによって、私は、自身の内面に潜む「精神的幼児性」の正体を掴むことに成功した。

私はそれ以降、30冊以上もの関連書籍を読み漁ったり、日常生活や過去において自身の取った言動の背景を解釈したりすることによって、次第に、自身の内面に潜んでいた心理的課題をあぶり出していった。

 

その過程で分かったのである。

私がこれほどまでに「大学受験」というものに拘らなければならなかった原因は、

私にとって大学受験は、“自身の存在価値”を賭けた戦いだったから

であった。

 

私は幼少期より、自分に自信がなかった。「無条件に、自分がこの世に存在していても良い」という感覚が、昔からまるでなかった。

そのため私は、小さい頃から、周囲の同級生や先生、両親といった他者に過度に迎合しながら生きてきた。私にとって「人付き合い」というものは、昔から、「眼前の人物へのご機嫌取り」を意味していた。

 

私は自ら、自身の存在に“OK”を出すことができない。そのため、他者からその存在に対し、“OK”を出して貰う必要があった。他者から「お前は俺にとって生きている価値がある」と思って貰えれば、私はその場、その人の前に限り、「生きる価値」を与えられる。その実績が「免罪符」となって、私はこの世に存在することができるのである。

 

そのため、他者から否定的な評価を下されることは、私にとっては自身の存在を否定されることであった。他者から「お前の“ここ”が気に入らない」と言われたその刹那、私は、自身がこの世に留まり続けるための「免罪符」を失う。私にとって免罪符を失うことは、自身の存在価値が無に帰することと同義であった。だから私は、誰彼構わず、嫌われないように、都合の良い存在になれるようにと、必死に努めてきた。

 

そうした、“命の土台が脆弱”な私を支えてくれたのが、「勉強」だった。私は小学校から中学校にかけて、同級生の中でトップか、それに準ずる成績を収めてきた。たとえ、他者の機嫌を上手く取れなかった日があっても、「でも試験では良い点数が取れているから」と、自分を肯定し、励ますことができた。学校の先生も、両親も、私が学校である程度の成績を収められているという事実を以て、その存在を肯定してくれているようであった。

 

いつしか私は、自分の存在価値を「試験でどれだけの偏差値を叩き出せるか」に依存することになった。自分で自分の存在を肯定し、自分で自分の存在価値を見出すことのできない私にとって、“数値”という客観的指標で与えられる試験の点数や偏差値が、自身がこの世に存在するための免罪符となっていった。ゆえに、自身の存在価値の如何を決する指標が、「大学受験の結果」に繋がってくるのは必然であった。

 

私にとって、“大学受験における失敗”は、“自身の存在価値の喪失”と密接にリンクしていた。私は、「試験で良い点数を取る」こと以外によって、自身の存在を認めて貰う法を知らなかった。

私は、学歴、収入、資産、社会的地位、名声、所有物の値段等といった“社会的ステータス”を得ること以外に、自身が人として、この世に存在して良い理由を与えられることを想像できなかった。

 

私は幼少期より、「人間不信」だったのである。私の目には、人は常に、私という人間がこの世に存在し続けていいものか、評価してくる対象のように映っていたのである。私はそれらの人々から、生涯にわたって「是」の評価を貰うために、客観的指標、すなわち、社会的ステータスを強迫的に追い求めていたのである。

 

ただ、人の価値を決定するのは、なにもそうした“社会的ステータス”だけに限らない。人としての器の大きさや、社交性、その人の有している価値観、愛情の深さ、心の温かさ、人への思い遣りの気持ち等といった“内面的要素”が、人としての価値に直結すること、そしてそれらのうち何に価値を感じるかというのは、各人によってそれぞれ異なってくるゆえ、人によって何処の誰に価値を覚えるかという感じ方もまるで異なってくるという事実を、十分に知らなかった。いやもっと言うなら、「自分の存在価値は自分自身が決める」という、この世を健全に生きるための大原則というものも、更々知らなかった。人の存在価値を決めるのは、他の誰でもない自分自身である。自身の存在価値の評価を他者に委ねている限り、真に健全に生きることはできないことを、私は知らなかった。

 

「客観的指標」なしに自身の存在価値を認められることはないと固く信じていた私にとって、所謂いわゆる、「良い大学を出て良い給料を貰って良い生活をする」ことは、自身がこの世に存在し続けるために必要な免罪符だったのである。

 

その免罪符を失ったと思われた瞬間、私は自身の存在価値・存在意義を全く見失い、自分を支えきれなくなってしまった――これが、私が「大学受験失敗」によって人生を破滅させてしまった所以である。

 

私はこの場で、似たような悩みを抱えている人達に伝えたい

 

 

 

受験失敗によって、“生きるか死ぬか”というところまで思い悩んでしまうことは、決して「幼稚なこと」でも、「醜いこと」でもない。それは自らの存在価値、否、生命さえ賭かっていた大一番で、思うような結果を出せなかったために生じた、ごく当たり前の反応だ。自分を過度に否定したり、責めたりする必要はない。むしろそうした心理的逆境の中、最後まで戦い抜いた自身を褒めてあげるべきだ。

 

失敗したことを“恥ずかしい”と思う必要もない。人は失敗することで成長する。失敗してしまったそのこと自体より、その失敗から果たして自身は何を学べるのか、その学びからどのようにして人として内面を成長させることができるのか、といったことを考える方がよほど意味のあることである。

 

そうは言っても、自分に対し、こうした前向きな働きかけを行うことは容易でないはずだ。自分自身を否定したくなる日も続いてしまうだろう。けれどもそんな自分を、幼稚だの、未熟だの、醜いだのと過度に批判する必要はない。なぜなら前向き思考というものは、その人の内面にある心理的課題がある程度克服された上で、ようやくできるものだからである。前向き思考には馬力が必要だ。力尽きた状態で、そのような馬力の必要な試みを敢行しては、完璧にやりきらない自身を否定するのも懸命でない。自分のペースで、少しずつ前に進んでいけばいい。

 

見えない先行きに絶望を感じるときは、過去に私の書いた記事群が少しは役に立つかも知れない。あれだけ過去の栄光やプライドにしがみつき、前に進むことを拒んでいた私でさえ、今こうして、生活を立て直すことができている。一朝一夕に現状を打開することは難しいかも知れないが、長期的な視点を持つことで、人間の持つ“再生力”とでもいう大きな可能性に、気付くことができるだろう。

 

最後に、自分の存在価値を決定するのは、他の誰でもない、自分自身だ。そのことを是非、頭に入れておいて欲しい。

自分の存在意義を、他者に委ねてはならない。そうしている限り、人生にはどことなく空虚感がつきまとってくる。

 

「自分だけが自分の存在価値を見出しているのでは満足できない」というのであれば、「人が人のどのようなところに価値を見出すかは、その人次第」という事実を頭に入れておくと良いだろう。自分では「欠点だ」「弱みだ」と思っていた部分が、ある人にとっては「価値あるもの」として映っているということが、往々にしてある。人が人のどんなところに価値を見出すかなんて、分からぬものなのである。

 

これは、周囲の人間の言動をよく観察することによって、より分かるようになることと思う。心に少し余裕が生まれた際、「人が人のどのような点に価値を見出すかは分からない」という大原則を頭に留めつつ、周囲の人間を観察してみると良い。その原則が正しいことが現実生活を以て了解され、ゆくゆくは自分自身の心底にも納得せられるまでその原則が浸透したならば、多様性を持った“人”という存在そのものに、名状しがたい、何か素晴らしさのようなものを感じることができるようになるだろう。

 

だから、なにも強迫的に社会的ステータスを追い求めたり、完璧超人になろうとする必要なんてない。自分の本質、性質、特質を大事にしつつ、内面であったり、自身の長所だったりを伸ばしていけば良い。どうしても看過できない短所が自己の内にあるなら、努力して改善するのもありだろう。ただその際に一つだけ頭に留めておきたいのが、「その短所ひとつあるだけで、誰からも認められないなどということは決してないのだ」ということである。短所が思うように改善されない自身を批判する必要など、どこにもない。

 

・失敗はなにも恥ずかしいものではないということ

・大学受験失敗に伴う心の傷はいずれ修復できること

・その修復の過程を無闇矢鱈に批判する必要はないこと

・自分の存在価値は自分で決定できるということ

・人からの承認は思わぬところからも得られる可能性のあること

 

――これらの原則を頭に入れながら生活することで、時間は掛かるかも知れないが、私と同じような軌跡を辿らずとも、問題を克服することができるようになるのではないかと思う。できることならば、人生で恐らく一度しかない「20代で送る大学生活」を、少しでも楽しい思い出で満たしていただければなと思っている。

 

 

 

以上、私が本ブログを通じ、大学受験に対しあれほどの執着を見せていたことの理由と、同じような執着に悩まされている人達に向けたメッセージを書きしたためた。本記事を以て、2013年から続けてきた本ブログが、真の意味で「完結」に辿り着いたような気がしている。

 

2020年となった今、このブログにどれほどの影響力が残っているか分からないが、少しでも、過去の私のような状況に陥っている人達の助けになれば良いなと思っている。