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桂慶治朗のブログ

上方の落語家、桂慶治朗のブログです。色々更新しております。落語会のご案内やそのとき思ったことなど諸々も。
よろしければ、お付き合いください。


今回は超長文です。

まず、
1月3日の
「東西笑いの殿堂」
なんとか精一杯やりきってきました。 
正直あの場所で自分が落語を一席やる
ということに、
実感もワクワクもできませんでしたが、

お客様もMC・出演者の皆さんも
心配なんか必要なかったなと思うくらい
温かく受け入れてくださって、

おかげさまでなんとか、
自分がよく意識している形は
多少なりとできたかなと思ってます。
ご視聴くださった皆様、
ありがとうございました。


さて、
ここ2ヶ月ほど取材をしていただいたり、
メディアでお話しさせていただいたりしながら
表に出してきてはいるんですが、

改めて
自分自身、
桂慶治朗
私が思う
落語について。



まず最初に、

この度2度の全国放送出演、
「NHK新人落語大賞」の『いらち俥』
そして1月3日
「東西笑いの殿堂」の『皿屋敷』
と披露させていただきましたが、

あの二席は、
各々の場の特別仕様であり、

私が普段からやっている落語ではありません。
(時間だけの問題でなく、内容自体が)

ですので今後もし、
あの二席のような落語を期待してくださる方が
いらっしゃった(すでに予約をくださった)と
すれば、
大変恐縮ですが、
なかなかご期待に沿えないと思います。

その上で、
現在、私が何を目指しているのか、
よろしければ
ここからご一読いただけたら幸いです。



まず、
私は落語という芸能は、
圧倒的に
「何をやるか」ではなく「誰がやるか」
だと思っています。

故に、お客様にとって
どんな印象をもってもらえるか、
そしてそのあと
どんな存在になれるかが
この世界で活躍するために
大事な部分だと。

いかに魅力的で
“愛される存在”
であるか、なれるかが。

二つの意味でもまことに僭越ながら、
私の師匠・桂米團治は
本当にお客様から愛される方です。

その理由は挙げると色々とあると思います。
師匠自身もお客様のことを大事に思っていたり、
そもそも人を喜ばせるのが好きだったり、
また天性のものであったり。
しかし、根本的な要因はわかりません。

ただ師匠に限らず、
一線で活躍されている方々は
やはりみなさん、
この
“愛される存在”であり、
“人間としての魅力”
に溢れた方だと思います。
そしてそれは
“面白い人”と言い換えられるとも思います。

さて、私桂慶治朗は、
自己分析において、

人として全く面白くありません。

少し極端に言いました。
結婚してくれた妻がいて、
付き合ってくれる友達や
可愛がってくださる先輩、
よくしてくれる仕事仲間がいる以上、
人としての魅力がゼロだとは思いませんが、

大勢の前に出て
そのパーソナリティを楽しんでもらえるか

といえば、
決してそんなことはないと思っています。
いわゆる
“普通”なんです。

誰かのエピソードトークの対象
(「こないだ慶治朗の奴、こんなことあってやなぁ」みたいな)
になることもなければ、
「なんかずっと見ときたい」
と思ってもらえたり、
自然と人が集まるような対象でもありません。
(そう思ってくださる方もいらっしゃるかもしれませんが、恐縮ながらこの世界のいわゆる人気者になるためのその数には、到底足りないと)


その場における面白い一言や
面白い冗談、ツッコミを考えること自体は
好きです。
しかし私の中で、
「面白いことを言う人」
=「面白い人(魅力的な人)」
ではありません。

もちろんこの世界に入ろうと
決意したときは、
自分は「面白い人」だと思っていました。

しかし、
この世界の魅力的な方々を近くで見て、
自分の存在をあらためて見直して、
いつの頃からか
自分はそうでないと確信するようになりました。

(ですから一時は、
正直この世界に入ったことを
めちゃくちゃ後悔しました。)

色んな表現方法がそうだとして、
落語という芸はとくに、
はじめにしっかりと型を身につけて、
最終的にその上に自分自身という人間性を乗せる
ことを目標とする
と言われます。

しかし正直、私は私自身を乗せても
落語が面白くなる自信がありません。
私自身が今後、面白くなれる自信もありません。

ただ幸い、ここに気がつくことはできました。

私自身は面白くなくとも、

落語という芸能そのもの
そして
現代まで残ってきた演目たちは、

本当に面白いんです。


であるなら、
せめて
“面白くない自分自身”を
落語の中から徹底的に消して、
できるだけ落語の、その演目の、
そのものの面白さをちゃんと出そう


というのが、
私の至った結論です。

乱暴なことを言いますと、
落語を「面白くないな」と感じられた場合、それは「落語が面白くない」のではなく、「その演者が面白い落語の邪魔をしている(技術でもパーソナリティでも)」場合が多々あるのです。

後ろ向きに聞こえるかもしれませんが、
その
「本来面白い落語、その邪魔をしない」
というのが今の私の目指すところです。
(お稽古はそのためにするものです)

ですから今回、
・オリジナリティ
・独特のアレンジ
・個性的な改作
等々の評価をいただくことがあり、
それはそれで大変光栄でありがたいんですが、

それは私が普段の高座でやっていること、
本来目指しているものではありません。

私が思うに私の場合、
意図的に出そうとした個性は、
短期的に局所的には
喜ばれることがあったとしても、
長くは続きません。大きく広がりもしません。
(おそらく、今回の『いらち俥』は
これからキャリアを重ねて、
技術が上がったり、貫禄がついたりしても、
より面白くなることはあまりないと思います。)

しかし、
ひたすら落語に身を委ねれば、
落語が私を大きくしてくれます。

そして、
徹底的に自分(個性)を消す作業を重ねて、
それでも残ってしまうものがあったなら、

それこそ私が乗せるべき人間性だと思います。

もちろん、
これからアレンジを全くしない
というわけではありません。
“噺家は行く先々の水に合わねば”
なので、
状況に応じて入れることはあると思います。
(4月に予選を控えた「若手噺家GP」では
またアレンジでやります。)

ただ、いつかはそういうことが必要ないほど、
ただただ普通に喋っているだけで、
お客さんを引き込める、大きな笑いを生める、

そういう噺家になりたいと思います。

そのための労は惜しまないようにしたいとも。


とまぁ上記の長々とした内容からも、
私自身が面白くない
と言うことはおわかりいただけたと思いますが、

「自分が面白くないことを自覚している」
というのが、この世界で戦う上での、
現状の私の最大の武器です。

でも改めてもう一度言います。

桂慶治朗は人として面白くはない。
しかし、
落語という芸能そのものと
残ってきた演目は、本当に面白い。

それは即ち、人間て面白い
ということでもあると思います。

それをなんとか、表現していけたら。

「何をするか」ではなく「誰がするか」

たどり着いたこの“何”を積み重ねることで、
いつかたくさんの人の“誰”になれますように。


慶治朗

※芸人としては、こういうことはあまり人前に晒すようなことではない気もするので、記事は予告なしに消す場合があります。あしからず。