こんにちは!ロサンゼルスで9歳女の子、7歳男の子 子育て中のKayokoですキラキラ


https://ameblo.jp/k-aphrodite/entry-12790774677.html


先日、祖母が安らかに旅立ち、無事通夜と葬儀を執り行うことができました。


私たちは会場には行けなかったので、最後の挨拶は妹にテレビ電話を繋いでもらい、感謝の気持ちを伝えることができました。


夫の実家や夫の会社からも心尽くしのお花をいただきありがたかったです。


祖母は大正14年生まれ。(大正最後の年の生まれです)生まれは奈良県で幼少期に割と裕福な家庭に養女入りしたようです。


結婚した後に、太平洋戦争が始まり、しばらく満洲に住んでいたそうです。


戦争の雲行きが怪しくなった頃に満洲から引き揚げることを決めたものの、日本行きの船着場に行くまでに敵軍に見つかったら殺されてしまう、ましてや女性だとわかるとさらに大変なことになるため、目立たない色の男性の服を着て、髪を短くし息をひそめて港まで行ったと教えてくれました。


途中広場で敵の軍?に出くわし、バレたら最後。命懸けで隠れて、命からがら、なんとか見つからずに逃げ切ることができたと一度だけ話してくれたことがあります。


帰国後は広島市街地に住んでいましたが、広島中心部に原爆が落とされたため、祖母の夫(私の祖父)は原爆が落とされた翌日に広島市内に入り、親族を探し回ったそうです。


直接の被曝は免れたものの、親族探しのため被曝後の広島市に近づいていた祖父は戦後何年も経ってから白血病(原爆症)を発症し、若くして亡くなり、祖母は未亡人になりました。


私の母が10歳頃のことだったようなので、おそらく祖母は40代で夫を亡くしていることになります。


そこからは文字通り女で一つで私の母、母の姉を育てあげたと聞きました。


以上が私が祖母から教えてもらった昔話で強烈に覚えているエピソードです。


たった二世代前のことですが、あまりにも境遇が違うことにびっくりします。色んな大変なことがあった祖母ですが、私にとっては、いつも優しい祖母でした。一度も怒られたことはありませんでした。


祖母は昔、裁縫の仕事をしていたため、私たちのためにもよくいろんなものを作ってくれました。


私たち孫用のおそろいの洋服、私が大好きだったリカちゃん人形、ジェニーちゃん人形の洋服や着物バージョンもよく作ってくれていました。


洋裁もとても上手だったのと、当時のファッション関連にも明るかったようで、私が中学生くらいになってファッションに興味を持ち出して色々な洋服を着てると決まって


「かよちゃん、いいセンスしてるわね、それ、今年の流行りよ」が口ぐせでした笑


私が中学生の頃にはいていた黄色いチェックのスカートは祖母の晩年のワードローブになっていました。


↓このスカートおねがいwith生まれたての息子。90歳差w


私が結婚してからは


「かよちゃん、身体に気をつけてね。(夫の名前)くんを大事にね。」


が、毎回決まって、別れる時の挨拶言葉でした。


ひ孫のこともかわいがってくれてましたが、緩やかに認知症が進み、最後の方は子供達のことも、夫のことも私のこともきっと記憶にはなくなっていってたのかなと思います。


それでも私は一切の寂しさはありませんでした。たくさん時間を一緒に過ごせた思い出があるからなのかなと思います。


娘にとっての祖母の思い出を聞いてみたところ、


「ソファにいつも座ってテレビを見ていて、お母さんといっしょを一緒にみてた」


息子にとっての祖母との思い出を聞いてみたところ、

「これ、お母さんに渡してね、といっていつもティッシュにお金を包んで僕に渡してくる」


でしたおねがい


母と父の老老介護のおかげで、祖母は自宅で最期を過ごすことができました。


家族に見守られて旅立つことができたのできっと喜んでくれてるかな、、喜んでくれてるといいなと思います。


祖母の教えを守り、身体を大事に、夫を大事にして過ごしていきたいと思います。



Under and Over The Same Sky with LOVEキラキラ