恐らく崇徳院は世間からいたく同情されたのでしょう(´;ω;`)! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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昨日は散々自分をコケにした後白河天皇に対してとうとうブ

チ切れ、「保元の乱」を勃発させたところまでを書きました。

 

この戦いは、武士も引き込んでのものとなります。崇徳院に

就いたのが、藤原頼長、平忠臣、源為義、源為朝といったと

ころです。対して後白河天皇に就いたのは、藤原忠通、平清

盛、源義朝といったところが主な面子です。

 

注目なのは、平清盛が後白河天皇に就いたことです。崇徳院

は、清盛が自分に就いてくれるのではないかと、秘かに期待

していたようです。

 

清盛の義母である池禅尼が崇徳院の息子の重仁親王の乳母と

いう関係もありますが、何より清盛も実は白河上皇の隠し子

です。なので崇徳院とは腹違いの兄弟になるわけですね。

 

清盛は迷ったようですが、平家の繁栄を引き出すために、戦

力が豊富な後白河側に、ひとまず就いたのです。

 

敗れた崇徳院は讃岐に流され、そこで血染めの呪いの言葉を

書き残し、自ら命を絶ったのでした。

 

その後、後白河院の子である二条天皇が在位中の23歳にして

崩御。また後白河院の女御・平滋子が35歳で崩御。後白河院

の孫の六条院が、13歳で崩御。等々、後白河院の身近で不幸

が連発しました。

 

人々は「崇徳院の怨霊」を口々に叫び、後白河上皇は恐れを

なして崇徳院を祀り、崇め奉りました。

 

本当に怨霊によるものだったかは定かでありませんが、世間

が広く崇徳院に同情し、肩入れしてことで、怨霊話はより真

実味を増し、後白河院を怯えさせたのでしょう。