新宿「百人町」の命名由来となった江戸時代の「百人組」という制度 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

ブログの説明を入力します。

戦国時代に大いに活躍した忍者たちは、江戸幕府にも取り立

てられました。まあ徳川家康が忍者に多大に助けられたのだ

から、当然でしょう。

 

ただし組織に組み入れられて役職がはっきりした分、野性味

はなくなり、役人化したようです。

 

御庭番といった忍者時代を引き継いだような諜報活動に回っ

た者たちもいましたが、多くは江戸城や江戸市中の警備を任

されるようになります。また、「鉄砲百人組」という役職も、

ありました。

 

江戸城大手三之門を守衛する役目でして、「最も武役の重き

所なり、武勇の人の勤め場也」という説明書きがあるように、

武勇が必要な警備だったようです。

 

鉄砲百人組は4組あり、「伊賀組」「甲賀組」「根来組」「

二十五騎組」に分かれていました。

 

組頭と与力がいて、その下に同心が100人ずつ属していた

そうです。彼らが住んだ場所は、今も「百人町」という名で、

残っています。

 

戦国時代までと比べると危険な仕事はガタ減りし、さほどや

り甲斐もなく、廃業する忍者も多く、また忍者としての能力

も落ちたと思われます。

 

とはいえその名残りは残っていたと思われるエピソードが、

あります。明治時代初期、日本にサーカスブームが起きたそ

うです。理由は、明治維新で失業した忍者たちがサーカス団

に多く再就職したからです。

 

欧米からサーカスは伝わりましたが、日本の興行主が失業し

た忍者たちを連れてその興行を見学。「キミたち、あれくら

いのことが出来るか?」と訊いたところ、「軽いものだ」と

全員が答えたため、サーカス団を結成。興行をしたところ、

欧米の本場サーカスをはるかにしのぐ技術だったため、大い

に人気を呼び、それを知った他の忍者たちもこぞって各地で

サーカス団をつくり、いずれも人気を呼んだそうです。

 

やはり平和になって需要が減っても、忍者は忍者。さすがだ

ったのです。