やはり古代においても「東国」の存在はとてつもなく大きかった! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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縄文時代は東日本が西日本よりはるかに発達していたことが

判明していますが、その後の弥生時代以降の古代においても

決して東日本が遅れを取ったわけでないことは確かです。

 

『日本書紀』や『古事記』があえてそれを伏せているので知

られていないだけなのです。

 

ただし状況証拠的なものは数々残っておりまして、それが顕

著なのが「壬申の乱」におけるエピソードです。

 

命を狙われていることを察した大海人皇子は、吉野を脱出し

て東国へ逃げました。すると彼を狙う大友皇子側の軍勢から

兵士が恐れをなして散り散りに逃げ惑ったというのです。

 

大友皇子側というのは、日本書紀や古事記によれば、最高権

力を持つ側のはずです。そして大友皇子を支えていたのは、

朝廷という中央政府が抱える軍であり、兵士です。対して大

海人皇子は、脱走した時には数人の舎人のみで、ほぼ丸腰。

戦闘態勢などまるで整っていません。

 

なのにそんな状態の大海人皇子が東国に逃げたというだけで、

中央権力の軍勢が恐れをなして兵士たちが逃げてしまうので

した。これはいささか奇妙な現象としか、考えられません。

 

つまり東国には朝廷よりもっと強い軍勢が控えていたことの

証明になるのですが、単に軍だけが強いということは、考え

にくいです。その軍を支えるだけの組織があったことが、大

いに考えられるのです。つまり、西国の朝廷よりもっと大き

な政府があった。そう見て良いでしょう。