金とマルコ・ポーロとフビライと元寇と源義経の相関関係 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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有名な「元寇」ですが、1度目は1274(文永11)年の「文永

の役」で、2度目が1281(弘安4)年の「弘安の役」でした。

仕掛けたフビライは当時、中国をも仕切っていました。

 

そして先日も書きましたしYouTubeでも扱ったように、1270

~1295年頃に、マルコ・ポーロが中国を訪れ、厚くもてなさ

れています。

 

そしてマルコ・ポーロはそのフビライに、日本の平泉の金の話

を聞かされて興味を持ち、岩手を訪れたところ、本当に金が豊

富に散りばめられた建物を数多く見て、圧倒されてしっまった

わけです。

 

というわけで少し昨日の続きになりますが、マルコ・ポーロの一

行は、日本全体が岩手に近いくらいなのか、全体でなくとも岩手

のように「金」にあふれた場所が数多くあると思い込んでしまった

のだと思われます。

 

となるとフビライの元寇の目的は、日本の「金」だった可能性も、

多分にあります。

 

しかしフビライの元や中国が日本と交流があったとはいえ、主に

港は西日本で、奥州は疎いと考えるのが通常かと思います。なの

に、奥州の金に関する情報を入手していたのでしょう?しかもそれ

より100年前の奥州藤原氏のことまで、詳しかったといいます。

 

フビライは、ジンギスカンの孫です。そしてジンギスカンというと、

源義経と同一人物ではないかという説が、シーボルト以来根強く

あるわけです。そして源義経を匿ったのは、奥州藤原氏なのです。

フビライは、祖父の代から語り継がれてきた「奥州の金」の話を基

に、元寇を決意したのでしょうか?

 

ジンギスカンの生い立ちは不明なのですが、家系図は判明してい

るそうなので、「源義経=ジンギスカン」説は日本以外で盛り上が

っていません。

 

しかし昨日から書いておりますように、あまりに一致する点が多過

ぎることを、逆にどう証明して行くか、今後の課題になると思います。