明治25年に「壬申の乱」が意図的に教科書から消された理由 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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これまで「壬申の乱」については、何度もこのブログでも扱

ってきました。それだけ興味深くてしかも凄く意味の或る出

来事だったからですが、それだけに後世での扱いが難しか

ったようです。

 

そこで今日は明治政府がこの「壬申の乱」の扱いに苦労し、

すったもんだした話を紹介したいと思います。

 

まず1870(明治3)年、「壬申の乱」で敗北した大友皇子が

「弘文天皇」という名で即位したとしています。

 

しかし『日本書紀』には、天智天皇が崩御した後、壬申の乱

の勝利者である大海人皇子が天武天皇として即位するまで

の半年余りを「空位」だったとしているのです。恐らく即位は、

していないでしょう。

 

ただ明治政府は、「天皇家に空位期間があったと解釈するの

はまずい」と考え、大友皇子の即位を既成事実としてつくり上

げました。

 

しかしそうなると、また新たな問題が生じます。大友皇子が即

位したとなると、大海人皇子(天武天皇)はその天皇を倒した

謀反人。テロリストということになります。しかも謀反を成功さ

せた人間が天皇となったわけです。

 

これはもっとまずいということで、試行錯誤に陥りました。結局

妙案が浮かばず、明治25年を境に「壬申の乱」は教科書から

意図的に消されたのでした。

 

それだけ大きな意味を持ち、しかも謎が深く、面白さも格別な

史実であった「壬申の乱」は、当然の如くそのまま埋もれるは

ずがなく、その後どんどん人々の興味の対象として浮かび上

がっているのです。