「東」の力を恐れ続けた藤原氏及び朝廷 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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後の天武天皇となる大海人皇子が身の危険を察して東への脱出

に成功したことを知った朝廷側は、恐怖におののいたとされてい

ます。大友皇子が整えた大軍の兵士たちも冷静さを失い、バラバ

ラになりかけたということです。

 

そして実際に大海人皇子は尾張氏を中心とした東の豪族や忍者

たちの支援で大軍を整えることが出来、壬申の乱に圧勝したので

した。

 

ただそうした事実も、後の藤原氏は消そうとしています。『日本書

紀』には東国のことがほとんど出てきません。勿論大海人皇子が

東の豪族たちを利用したことも。しかもその『日本書紀』自体を、

大海人皇子から即位した後の天武天皇が編纂させたことにしよう

としたこと自体、あまりに不自然です。

 

要するにそれだけ、「東」の存在を無視したかったわけです。天武

天皇が東を利用したことも、後世に伝えたくなかったのかと思われ

ます。従って、東を利用した天武天皇が東がほとんど出てこない史

記『日本書紀』を編纂したことにしようとしたのだと、思われます。

 

ただしそれでも東の力は、衰えず続きました。だからこそ坂上田村

麻呂に「蝦夷征伐」と称した東西戦争を命じたわけです。それにも

勝利したわけですが、考えてみればその後も東は裏でやはり力を

維持し続けていますね。

 

結局朝廷から政権を奪い武家政治を始めたのも、東(関東)の武士

たちでした。東に土着した関東平氏たちが、朝廷とつながりの深い

平氏を倒したというのが俗に言われる「源平合戦」でして、源頼朝は

その旗印に利用されただけです。