「源頼朝毒殺説」について | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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色んな説が渦巻いて真相が特定されていないのが、源頼朝の

死因です。

 

以前最有力視されていたのが、落馬によるものでした。確かに

彼は、1199(建久9)年暮れに、落馬しています。そのことは、

『吾妻鏡』にあくまで伝聞記事とじて、書かれております。

 

「稲毛重成は北条政子の妹と結婚していたが、その妻が建久

六年に死去した。追福のために相模川に橋をかけることを思

い立ち、同九年十二月二日に工事を始めた。ニ七日に完成し

た橋の供養式が行われることになり、頼朝と政子が妹のため

に出席した。帰途につこうとした時、頼朝が突然馬から落ちた。

そして、ほどなくして死んだ」

 

建久9年12月27日に頼朝は、落馬しました。ただ「ほどなくし

て死んだ」という表現ですが、落馬が原因とは書かれていませ

ん。そして頼朝が死んだのは、翌年の1月13日です。落馬の

後、17日間生きています。その間生死をさまよっていたわけ

でも、ないようです。

 

そこで毒殺説が出て来るのですが、それによると、毒を盛った

のは幕府の政治顧問として都から招かれた公家の大江広元

ということになっております。

 

当時京都の朝廷では、新幕派の九条兼実が失脚させられ、反

幕派の土御門通親が権力を握っていました。大江広元はその

土御門通親に引き立てられ、片腕となっていたそうです。そして

頼朝の死を知った土御門は驚きもせず、すでに決めていた反幕

府の新人事を進めたということです。

 

ただそれで鎌倉幕府が大騒ぎにならなかったのは、毒殺が実に

巧妙で証拠がつかみにくかったこと、源頼朝は将軍にありながら

政治の実権はなかったために対した痛手ではなかったことが、挙

げられています。