1290(正応3)年、浅原八郎為頼という武士が仲間4人と共
に御所に侵入して、伏見天皇の命を狙うという事件が、勃発
しました。
要人暗殺というのは本来、もっと策を凝らしたものであるはず
です。相手を油断させて近づくとか、侵入の仕方もかなり工夫
があってのものなはずですが、正面から堂々と侵入できたの
です。いや、これは侵入というより乱入でしょう。
為頼らは、夜更けに馬を走らせたまま、内裏の正面から堂々と、
御所に入り込んだのです。それが出来たこと自体が、前代未聞
でした。本来なら「兵衛」と呼ばれる警護の兵たちが取り押さえて
しかるべきです。それが成されないほどに、御所の警護が緩ん
でいたわけです。
とにかく雑なやり方でいとも簡単に御所に乱入し、女官部屋の
入口に立って「御門はどこでお寝みか!」と怒鳴ったとされてい
ます。これまた雑です。暗殺を企てるなら、音を抑えるのが得策
なはずなのに、大声で威嚇するというのも、喜劇ですね。
女官は嘘の場所を教え、伏見天皇にこのことを告げて女装をさせ
て脱出させたということです。為頼たちはそうと知らずに探し回っ
たものの当然の如く見つからず、ようやく出てきた数十騎の警護
の武士たちに囲まれたため、腹を切ったということです。
結局実行犯たちが未遂のまま自刃してしまったため、動機はわか
らずじまいですが、大覚寺統と持明院統の対立が拡大していた時
だけに、大覚寺統の亀山法皇が持明院統の伏見天皇を狙ったの
ではないかという憶測が高まりました。
しかし証拠がないため、亀山法皇も「全くわけがわからぬ」というこ
とで通し、真相はわからぬままでした。