最強力士・雷電為衛門は藩の公文書作成任務も果たしていた「文人」でもあった! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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史上最強力士といえば、江戸時代に遡っての雷電為衛門だと、

見なされています。勿論見た人はいませんが、成績や当時の

記述を見れば、明らかです。

 

年2場所で21年間35場所を務め、25回の優勝。254勝10敗

という成績。優勝回数が白鵬に及びませんが、年2場所で45歳

まで務めたことを考慮すると、今とはまるで比較できません。い

や、換算するとやはり、雷電の方が凄いでしょう。

 

ところでこの雷電ですが、「文武両道」でかなりのインテリジェンス

があったことは、あまり知られていません。

 

江戸時代、力士は藩のお抱えでして、雷電は松江藩の所属でした。

そして彼は力士としてだけでなく、松江藩の「公文書作成」の任務も

こなしておりました。

 

「雷電日記」というものを常に記していて、それを基に「萬御用覚帳」

という公文書を作成し、藩に提出し、松江藩はそれを参考に藩政や

対外交流を進めていたのです。

 

雷電が巡業で秋田に行った時、奥羽大地震がありました。その際の

雷電日記の一部です。

 

「八月五日、出立仕り候。出羽鶴ケ丘へ参り候ところ、道中にて六号

より本庄塩越通り致しところ、先六合より壁こわれ、家つぶれ、石の

地蔵こわれ、石塔たおれ、塩越へ参り候ところ、家皆ひしゃげ、寺杉

地下へ入り込み、喜サ杉と申す所、前度は、潮なき時にても足のひ

ざのあたりまで水あり・・」

 

といった具合です。状況がわかりやすく、報告書としては完璧に近い

です。観察力に優れ、表現も的確で刻明です。記者として優秀だった

ことがわかりますね。この「公文書作成」の仕事は、20年間続けてい

たそうです。究極の文武両道。松江藩にとってはなくてはならない存在

だったわけです。