源義経生存説、そのうちの、彼がモンゴルに逃げ渡り、チン
ギス・ハーンになったという説は、特に有名です。これを最
初に言い出したのは、水戸光圀だとされています。
まあ、チンギス・ハーンの場合には幼少からの記録も残って
いるので、源義経とは別人でしょう。
ただそれとは別に、「源義経生存説」は、根強くあります。し
かしそちらは、チンギス・ハーン説とは対照的に、「源義経凡
人説」ともつながるのが面白いところです。
そもそも「源義経生存説」は、鎌倉に送られてきた義経の首
が腐り切っていて誰のものか判別できないものであったこと
から、始まっています。
義経の死の報せが鎌倉幕府に届いたのは、討たれた22日
後のことで、それは当時としても遅過ぎます。しかも首が届
いたのは、そのまた21日後のことでした。当時の流通手段
でも、平泉から鎌倉まで、5日後には届けられたはずなので
す。
この遅さはあまりに不自然で、平泉の藤原泰衡らが意図的
に送らせたものと思われます。
また、もし源義経が兄・頼朝の恐れるほどの軍師であれば、
奥州藤原氏と組んで幕府と戦ったはずです。それを、何もし
ていません。
また、藤原氏の中でも、ちょっとした内乱が起きていました。
藤原秀衡が死に、その子の泰衡が後を継ぐと、泰衡の弟の
忠衡は義経に、一緒に手を組んで泰衡を倒し、平泉の主に
なろうと声をかけています。しかし義経は動かず、泰衡はあ
っさりと忠衡を倒してしまっています。
というわけで、義経には存在感がほぼ、失われていました。
そもそも源頼朝が義経を討ったという史実も、頼朝が義経の
台頭をひがんだとか彼が頼朝を追い落として自分が将軍に
なろうとするのを恐れたりひがんだりしたのが原因という言
われ方をしていますが、これは完全に嘘です。
義経は、平清盛の娘である建礼門院徳子の保護を仰せつか
りながらその色香に目がくらんで手籠めにしたり、公家たちに
対して蛮行を繰り返したりと素行に問題があったことが、明ら
かになっています。
頼朝が義経を討ったのは、それらの蛮行に対する処罰が目
的で、そうしないと示しがつかなかったのでしょう。
なので、平泉ですっかり大人しくなっている義経が仮に生き
延びながら別人の首が差し出されたとしても、頼朝にすれば
痛くもかゆくもなく、むしろ弟だけに”まあめでたし”と思うくら
いの情があったと考えれば不自然ではありません。
ただそうなると、義経に関する「悲劇のヒーロー伝説」は色褪
せてしまうので、後世のエンターテイメント業界に多大な不都
合があったというところではないでしょうか。