最後の将軍・徳川慶喜のかなり優雅だった明治維新後。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1868(慶応4)年、江戸城が無血開城されることが決定

し、徳川15代将軍・慶喜は、江戸城を明け渡すことにな

りました。


その後の慶喜ですが、翌69(明治2)年から30年間、静

岡で過ごしています。


その間彼は、政治に関わることを一切避け、ひたすら趣味

に没頭する生活を、送ったそうです。


元々非常に多趣味だったことが、慶喜の生活に活気を与え

たようです。日本画、読書、囲碁、写真、能楽、謡曲の他、

馬術、弓、そして実は手裏剣の名人だったことも、先日紹介

したばかりです。実は、文武両道だったのです。


徳川宗家から定期的に「御定金」が送られてきた他、華士

族の秩禄を排除する際に交付された金禄公債を手にした

ため、金銭的に困ることが全くなかったようです。


食べ物の好物は、西洋料理に永坂の更科そば、ふき豆、

お菓子は風月堂の特製品などだったそうです。他に、静岡

で水揚げされる新鮮な魚の数々も、堪能していたとの記録

があります。


また、味噌汁に砂糖を入れるという変わった趣味もあり、朝

はバタートーストと紅茶が定番化していたということなので、

開国によってどんどん西洋の食文化が入ってくるのを喜んで

いたと思われます。


夜の生活も盛んで、3人の側室に21人の子供を産ませてい

ます。明治になっても、側室との関係は許されていたのです

ね。そして21人の子供というのは、なかなかです。


1897(明治30)年、東京に帰り、巣鴨、小石川の屋敷で静

かに暮らし、それから16年後の1913(大正2)年、77歳で

他界しています。明治維新の渦中にいた中で、最も長生き

のようです。大正時代まで生きたというのは、意外ですね。