意外としぶとく生き延びていた今川義元の子孫たち。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1560(永禄3)年の「桶狭間の戦い」で織田信長に敗れ

た今川義元は、戦下手の見本のように言われ、今川家

は哀れな没落家系のような伝えられ方をしています。


実は意外とそうとも言えないという話をしようと思うわけ

ですが、その前にこの今川家について触れておこうと思

います。


今川家は東海地方の名門で大大名でしたが、これはか

つて守護大名だった時代からの地盤を引き継いだもので

した。そして戦国大名となってから最も栄えたのは、この

ブログでも何度か紹介している寿桂尼の時代です。義元

の、母親です。


この今川寿桂尼は、女戦国大名として、戦に関しても達人

でして、信長も彼女と戦ったら負けていたでしょう。この人

の後を継いだのが、今川義元です。父親の後を継ぐ戦国

武将が多い中、珍しく母親の後を継いで戦国大名になって

いるのです。果たして、戦の仕方をどのように教わったか。


女戦国大名は他にも結構いましたが、戦い方が強い弱い

とは別に男とは少々違っておりまして、やはり母親の戦法

を真似るには無理があります。その辺が戦下手につながっ

ているのかもしれません。


そして今川義元は「桶狭間の戦い」で討ち死にしてしまい、

息子の氏真が今川家を継ぐのですが、属臣だった徳川家

康に裏切られ、伯父に当たる武田信玄に攻め込まれて駿府

城を奪われてしまいます。


当然のことでして、今川氏真はハナから戦が嫌い。それど

ころか、連歌や蹴鞠(けまり)が趣味ということですから、武

士をやる気がなかったのかもしれません。ほぼ貴族です。


結局夫人の実家であった北条家の領地に逃げ込み、一時

は共闘関係を組むのですが、武士らしさに著しく欠けるか

らか、北条家からも追放されてしまいます。


その後、一度は自分たちを裏切った徳川家康にかくまわれ

ていたそうです。更には、織田信長の「御伽衆」になってい

たという記録も、あるようです。「御伽衆」というのは、武将

専属の芸人のことです。やはり戦国時代とはいえ、お笑い

は必要。いや、そうした殺伐たる時代だからこそ、笑える

娯楽は不可欠だったのかもしれません。


氏真は、多趣味な風流人だったので、多芸でもあったと思い

ます。「御伽衆」の仕事はこなせたでしょうが、それを父の仇

である織田信長専属であるところがにわかに信じがたいと

ころでもあるようです。しかしそうした「武士のプライド」がない

ところが強みでもあったかもしれないし、信長という人物がそ

れだけ魅力的だったのかもしれません。


その後、江戸時代に入ると、氏真は家康に屋敷をもらい、77

歳まで生き延びました。信長よりもはるかに長生きです。更に

彼の子孫は、幕府の儀式をつかさどる高家として、徳川家に

取り立てられています。


こうして今川家は、しぶとく繁栄しているのです。戦国時代を

生き延び、江戸時代に光を見た一番の理由と武器は、武士

らしさの放棄でしょうか。そんな今川家の「桶狭間の戦い」以

後でした。恐らく氏真の芸能人・文化人としての力がお家を

救ったのでしょう。