明智光秀といえば、頑固な学者肌である反面、考え方が保守的
で感性に欠ける性格。常に斬新さを求める織田信長にはそこが
不満だったため、しばしばつらく当たった。というのが多くの見解
で、私も以前はそのように解釈しておりました。
しかし必ずしもそうでないことが、判明しております。光秀は、決
して保守的で融通の利かないタイプでは、ありませんでした。
彼の性格を物語る顕著なものとして、大和郡山城の石垣がありま
す。この城は筒井順慶が築いたとされますが、実際には明智光秀
の指導のもとに築かれたと見て良いようです。光秀は、築城の名手
でもあったのです。
その石垣ですが、石と石が隙間なく重なっています。ただしこれら
の石の大部分は天平様式の宮殿や寺院の礎石なのです。中には、
お地蔵様まで、使われているそうです。
奈良平野というのは、石がきわめて少ないそうです。そのために遺
跡の石を拝借したわけですが、こういうことをする人は、滅多にいま
せんでした。理由は、たたりがありそうだからです。遺跡に手をつけ
ることは、何かしら罰が当たりそうな気がすると、考えられたのです。
しかし明智光秀は、確固たる理由があれば、構わない。むしろ遺跡
の石を拝借することで、そこに秘められた神仏の力も借りられると、
考えたようです。斬新で、非常に合理的でして、他にこういうことをす
る人がいるとすれば織田信長くらいだろうと思われます。
つまり、織田信長と明智光秀は、似た者同士でもあったわけです。だ
からこそ信長は光秀に目をかけたのですが、似ている面があるから
よけいに、合わない部分は合わなかったのでしょう。光秀は、相手が
大将であろうと、ポリシーを曲げない人でした。
信長は、つらく当たったりもしましたが、光秀が嫌いではなく、自分が
反感を買っていることも知りませんでした。だから、「本能寺の変」を、
まるで予測していなかったのでしょう。
しかしそんな明智光秀の性格を考えると、よけいに「光秀=天海説」が
真実味を感じられて行きます。その辺は、またの機会に触れようと思
います。