「大化の改新」の際に作られた戸籍は今よりはるかに細かいものでした。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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645年6月12日に起きた「乙巳(いっし)の変」の後、「大

化の改新」が断行されます。


どういうことかというと、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我

入鹿を暗殺した事件そのものは「乙巳の変」という名前が

別にありまして、「大化の改新」はその後に行なわれた大

幅な政治改革のことをいうのです。


以前は「乙巳の変」と「大化の改新」を一緒にしていました

が、現在はきっちり分けられているようです。


「大化の改新」で最も重要な仕事となったのは、戸籍づくり

でした。その内容は、今とは比べものにならないくらいに、

細かかったそうです。


記載されるのは、戸主名、家族名、その続柄、姓、年齢、性

別。召使いがいれば、その名と年齢、誰の召使いかも記しま

す。と、ここまでは、当たり前かもしれません。


他に、病人や身体に障害のある者はどの程度か、相続負担

を免じられるかを、事細かに記入させられます。


更に、顔の特徴。ホクロの位置や体つきなども、かなり細かく

書く必要がありました。


これらは、中央集権政治をガッチリと固めるためと、犯罪防止

や犯罪人逮捕をスムーズにするためです。そのためには、徹

底した管理制度が必要だったということでしょう。


これが、記録に残る日本最初の戸籍づくりです。その後も戸籍

はつくられ続きますが、これより細かくなることはありません。ゆ

るくなっていきました。徳川家康が「日本は話し合い(民主主義)

がなくては成り立たない国民性の国だ」と言ったそうですが、実

は管理社会には向かない国だったからでしょう。