戦国の世を徹底した快楽主義で乗り切った大形殿というユニーク女性。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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平安時代には、和泉式部のような「性の探究家」も数多くいました。

しかし戦国の世となると、探究している暇はなく、全てが実践あるの

みでした。そしてそんな生き方を思い切り実行した女性の代表例が、

この大形殿という女性です。


彼女は当初、細川持隆の側室でした。しかし彼が留守がちだったため、

阿波を預かる三好義賢と密通するようになります。この密通は細川持

隆に知れるところとなりました。密通というにはあっけらかんとし過ぎて

いたのが、原因です。


持隆にとっても、大形殿の美貌と明るい性格は手放したくなかったた

め、問題は起きました。ただ、問題は単なるいざこざでは済まず、小さな

戦にまで発展しています。1552(天文21)年の見性寺の乱です。


この時大形殿は、あっさり三好義賢についています。彼女は三好軍の

男たちに対しても積極的に士気を盛り上げるための体開き、性の秘術

を施したと思えます。それが実って三好軍は勝利し、彼女は義賢の正室

となります。尚、ずっと大型殿で通していますが、そう名乗ったのはこの

時からでして、それまでは小少将といっておりました。本によっては、こ

ちらの名前で紹介されていたりもします。


ただ三好義賢の正室になったからといって、彼一人で満足する大型殿

ではありません。家臣たち相手に快楽追求の行為は続いていたため、

義賢が戦死して30歳で未亡人になっても、相手に困ることはありませ

んでした。


その一番の相手は、篠原自遁(じとう)という男でした。しかし彼との関係

を能天気に続けていられるはずも、ありません。何せ三好義賢が戦死して

しまい、本拠となる勝瑞城(しょうすいじょう)は、長宗我部元親に乗っ取ら

れてしまったのです。


ただ、ここでも彼女及びその家臣たちを救ったのが、その床上手でした。

長宗我部元親は、大形殿の色香、床上手、そして機転の良さを耳にして

いました。実際会って話してみてすぐに気に入り、側室にと誘いました。


大形殿はあっさりと受け容れます。自分の命が、惜しかったわけではあり

ません。家臣たちのためでもありました。自分が元親に身を投げ出し、君臨

することが、三好の家臣たちにとっても有利に運ぶのです。ただ、彼女

自身の欲望が満たされるということも、ありますが。


その後、長宗我部元親は、四国全土を制します。子供の頃は「姫若」など

と称され、およそ戦は似合わない。お姫様の方が向いていると言われてい

た元親ですが、もしかしたらこの大形殿がより大きな力を与えたのかもしれ

ません。