農民一揆に敗れた腹いせ?に将軍を暗殺した守護大名 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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24日、「足軽戦法」について書いた記事の中で、「国人」と呼ばれる土着

の地主を兼ねた武士の存在を紹介しました。室町時代も末期になると、

彼らもしばしば一揆を起こしまして、それを「国一揆」と呼びました。


この「国一揆」と「農民一揆」が合体して、国の領主である守護大名の将兵

たちを打ち負かすという出来事がありました。播磨国一揆として伝えられて

います。国人と農民が連携して守護大名・赤松満祐の将兵たちの国外退

去を求めた一揆で、国人と農民の連合軍が大名軍に勝利しています。


「凡そ土民の所、侍をして国中にあらしむべからず」

そんなスローガンを、国人たちは掲げていました。要するに、赤松満祐と

その将兵たちの専制ぶりに反発し、農民たちの人権を守るため。いわば

「民主化運動」を謳ったわけです。


まあ、国人たちにすれば、表向き民主化を謳いながら勢力拡大を試みた

のですが、それが見事に成功したのです。下剋上の始まりを物語る出来

事と、言えるでしょう。


これが、1429年のことです。ただ、ここで立場を失ったように見える赤松

満祐ですが、この後もしばらく守護大名の座を守り続けています。そして

この敗北経験が生きたのか、12年後の1441年、自らも更にスケールの

大きい下剋上行為をしております。


この年の6月24日、赤松満祐は時の将軍・足利義教を暗殺しております。

京都の赤松邸に将軍を招いて宴会を行なっている最中、油断した瞬間を

狙ってというものでしたが、他に細川、山名、大内、畠山、京極といった、

錚錚たる大名たちも同席する中での出来事。大胆極まりない話です。


しかも驚くのは、犯人の満祐に対し、追っ手がまるでなかったことです。

満祐自身、逃げ果たせるとは思っておらず、義教の首さえ取れればその

後すぐに死んでも良いと思っていたのです。ところが、播磨国に帰国し

てからも何事もなく、拍子抜けしたということです。


この6代将軍・足利義教は、結構知られた話ですが、くじ引きによって

将軍の座に就いています。そんな経緯もあって、舐められまいと必死。

ほとんど被害妄想に近く、そのため独裁がエスカレートし、大名たちへ

の余計な干渉や不当な処罰が相次いでいたということで、嫌われ方は

半端ではありませんでした。


従って、他にも命を狙う人間は少なくなかったし、この「将軍暗殺」を”

ざまあみろ”と思う人間は大勢いたようです。しかし、殺人事件は殺人

事件。しかも「将軍殺し」には違いありません。いくら嫌われ者の問題

将軍とはいえ。それが何の追っ手もなく、処罰もなかったところは、室町

幕府の権威を落とす結果になってはいました。


しかもこの赤松満祐、その後再び国人や農民たちの反発によって失脚

しているところが、いかにも下剋上の世を物語っています。