徳川吉宗と加藤清正の災害時における見事な対応 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1742年は、夏前から暴風雨が続き、7月末から8月にかけては、各地

の河川から水があふれたとされています。勿論江戸やその近辺も例外

ではなく、浅間山では大きな山崩れが起き、永代橋と新大橋は橋ごと

流され、普請中の両国橋の杭もやはり流されました。


その時救いだったのは、時の将軍・徳川吉宗の迅速な対応でした。ただち

に巡察を命じ、隅田川沿いで災害を受けた御家人に恩貸金を貸し付ける

と共に、公領・私領を区別せず、農民に糧米を分け与えました。


また、水害だからといって物価を釣り上げてはいけないという厳しいおふれ

も出して、米相場の管理をしました。そして一段落した後、関東各地の河川

の堤防の大がかりな修築工事を行なったのです。


それらの政策によって、人々の生活はどうにか守られ、その後これほどの

水害は起こらなくなりました。


それよりはるか前、1596年7月13日夜半、近畿地方を「伏見大地震」とい

う前代未聞の大地震が起こりました。これによって、時の権力者・豊臣秀吉

の居城である伏見城の城郭が倒壊し、570余人が圧死したとされます。


その時、謹慎中だった加藤清正が自らそれを破って駆けつけました。彼は

足軽200人に梃子を持たせて、ただちに瓦礫の下敷きになっている人々

の救助に当たらせています。


ちなみに加藤清正の謹慎は、政敵である石田三成が清正の事実無根の

ネガティブな行状を流し、秀吉の耳にも吹き込んだからです。しかし当の

三成は、突然の災害にうろたえて、何もできなかったとされます。


今日、野田総理は、増税によって得た資金を復興にも充てると言っており

ました。これ、語るに落ちた感じなのです。何故なら、昨年からの寄付や

チャリティーなどによって集められた復興資金は、まだほとんど手つかず

の状態なのです。


つまり、復興に向けての「金はあるけど知恵がない」状態が続いているので

す。地方に資金を与えて、自治政策に任せれば、地元の政府なりゼネコン

が徳川吉宗化、加藤清正化してもっと復興は早まったでしょう。


ところが、中央政府と官庁が、ことごとく「石田三成化」してしまっている上、

自分たちの存在感にこだわっているのが、今の状況でしょう。また、徳川

吉宗が災害後に行なった公共工事は、自民党が「増税後にやるべき」と言っ

ている公共工事とまったく違います。


そんなことを痛切に感じたので、今日ははるか昔の災害時の例を題材に

してみました。