607年、聖徳太子は自らが書いた国書を小野妹子に持たせ、当時中国
を統一していた隋に派遣しています。一般にいわれる「遣隋使」でした。
その翌年、10ヶ月ぶりに帰国した小野妹子は、隋からの使い(答礼使と
呼ばれていました)を同行しておりました。
そして推古天皇の前に出た妹子は、「帰る途中、百済で百済人に襲われ、
隋からの返書を紛失してしまいました」と報告しているのです。大事な返書
をなくしてしまった。致命的なミスです。何のために隋にいったのか。しかし
推古天皇は、「今回は、隋から答礼使も来ていることだし、不問に付す」と
し、何のおとがめもなく済んでいるのです。
これ、実は紛失していなかったものと見られております。返書の内容があま
りに日本を侮辱するひどいもので、推古天皇に見せられなかった。天皇もそ
れを察した。そう思われています。
まあこれは、最初から、わかり切ったことでした。聖徳太子が持たせた国書
には、かの有名な「日出ずる処の天子・・」という言葉も含まれていたのです。
「日出ずる処の天子、書を没する処の天子に致す。恙無き(つつがなき)やと」
何気ない言葉に見えますが、これ、隋への挑戦状です。「天子は一人しかい
てはいけない。その天子は我が国におる」といってはばからず、周囲を属国
扱いしていた隋に対し、「我が国にも、天子はいる。だから、これからあなた
方と交流はするが、関係は対等だ」と、毅然と言い放ったのでした。
この当時、隋は今のアメリカなど比べものにならないほどの大国でした。対す
る日本は、今よりはるかにちっぽけな発展途上国と見られていました。軍事的
にも、それこそ白鵬が三段目くらいの力士と戦うようなものです。しかし聖徳
太子は、ひるまなかったのです。
当然、隋の皇帝・煬帝は、激怒。返書の内容は、脅しに近いものでした。ただ、
国書の内容は推古天皇も知らされていたため、予想できる内容だったのです。
この5ヶ月後、小野妹子は再び隋に行っています。結局、隋が譲歩している
のです。聖徳太子の毅然とした態度もさることながら、それだけ隋にとっても
日本は捨てがたい国だったのでした。何が捨てがたいかというと、文化、そし
て資源でした。
日本の農業自給率が40%台。しかし農業従事率数%、土地稼働率も似たよう
なもので40%もあるのが奇跡で、それだけ農業技術と土地が優れているという
ことなのです。当然でしょう。過去、自給率100%で何千年やってきた国なので
すから。
外交は大事ですし、グローバリぜーションを軽視する気もないですが、それに流さ
れて、内需を殺してきたことは、大きく反省しなくてはいけません。外需で経済を
発展させようとする余り、「日本には資源がない」などというガセネタで国民を洗脳
し、減反政策などという愚かなことをやってきたわけです。
日本の内需が実は優れた可能性を持っていることは、最近次々と明るみに出て
いる以上、日本の上層部、そしてマスコミも、聖徳太子を少し見習うべきではな
いでしょうか。それをやっても、アメリカは攻めては来ませんよ。最初は脅しに来て
も、すぐに見直し、友好的手段を言ってくるはずです。
新潟沖油田、本当に本腰を入れて下さい。そして、大河ドラマでやって欲しい歴史
人№1が、聖徳太子だということを認識し、彼のこの功績に泥を塗るようなことはし
ないで欲しいと思います。