日本は本当は鎖国などしていなかった。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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徳川幕府は長崎を除く全ての港を閉ざし、オランダ以外との交渉を

断った。それによって、国内産業は発展したが、国際的視野は狭め

られた。


というのが、学校の教科書に長らく出ていた鎖国に関する記述です。

いや、出ていたじゃなくて、今も出ているのかな。


しかし実際には、江戸幕府は、「鎖国令」というのを、一度も出してい

ません。「鎖国」という言葉すら日本にありませんでしたし、外国との

交流を禁じた形跡もないのです。


貿易に関しても、現実には、鎖国が行なわれたとされる江戸幕府成立

後の方が、それ以前より盛んでした。「貿易額」は、はるかに増大して

いるのです。


ただ、昨日のキリスト教禁止の続きになりますが、宣教師たちの日本

侵略の意図を読み取って以来、キリスト教の旧教に対する幕府の警戒

心は高まりました。


従って、フランスやドイツなど、ヨーロッパ主要国で旧教の国はチェック

が厳しくなったことは事実です。しかし、貿易や国交を閉ざしてしまった

わけでないことも、確かなのです。


ただそんな中、オランダは、キリスト教国家の中でも新教の国でして、

戒律も緩やか。そして、日本に対しても特に友好的だったのです。また、

日本に対する思い入れもひときわ高く、貿易及び国交成立に向けて並み

並みならぬ執念を燃やしていました。


そんな姿勢を見て、フランスを始めとした当時の先進国のほとんどが

日本から撤退し、オランダの望む日本との独占貿易に近い形が出来上が

ったのでした。ですから、日本にすれば、自然の成り行きだったのです。


また、オランダ独占といっても、中国との交流や貿易は続いていました

し、オランダを通じて世界の情勢は知ることが出来たのです。だからこ

そ、徳川吉宗が、オランダにはいないゾウの輸入などを出来たわけです。


鎖国という言葉が使われるようになったのは、幕末の開国後のことで

した。ドイツ人のエンゲルト・ケンぺルという人が、日本の偏った貿易

の仕方について触れた書物が日本に出回り、その一部を幕末の語学者

志筑忠雄が「鎖国論」と訳しました。


するとその「鎖国」という言葉が当時の流行語になり、後に明治政府が

「開国」に対抗する言葉として多用するようになった。というのが真相な

のでした。


そんな単なる流行語が100年以上過ぎても教科書で使われ、誤った

認識を植え付けていく。なんてことは、幕末当時の人たちも、考えていな

かったはずです。