死に方までドラマチックでお騒がせだった徳川綱吉 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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「生類憐みの令」、130人以上のお小姓を抱えての男狂い、更には

鳥を島流しにするなど、奇抜なエピソードに事欠かない5代将軍徳川

綱吉。やはりというか、その死に方まで波瀾で奇抜でした。


えー、最初は今日のこの時間、違うネタを扱う予定でしたが、実は、

私個人的に、午後から「ホモ系映画」の撮影がありまして、すでに役

のモードに入っているのであります。


従って、それにちなんで「男色の帝王・徳川綱吉」の話に、急遽差し替

えた次第です。


幕府の公式文書『徳川実紀』によると、1709年1月10日、綱吉は当時

猛威を振るっていた麻疹によって亡くなったとされています。しかし、その

翌日、正室の信子も後を追うように、同じ麻疹によってこの世を去ったと

されているのです。ちょっと、不自然ではありませんか?


そして、綱吉没後70年過ぎた頃に世に出た『翁草』には、別の死因が

記されているのです。


綱吉と信子の間には、子がいませんでした。世継ぎの出来ない綱吉は、

かねてから寵愛していた柳沢吉里に将軍職を継がせようとしたのです。

それを知った信子、「徳川家の血筋が絶えてしまいます」と、何度も綱吉

に進言します。しかしこのバカ殿は、聞く耳を持ちません。


そこで思い余った信子は大奥の「宇治の間」で綱吉を刺し殺し、自らも

喉を突いて自害した。つまり、無理心中だというのです。


まあ、はっきり申し上げて、こっちが本当でしょう。男色一辺倒からやがて

女にも目覚めて男女両面で好色と化した3代将軍家光と違い、綱吉の

場合はほぼ生涯男好きの方が95パーセント以上だったようです。


信子との夫婦仲も、しっくり行っていませんでした。だから信子に残された

使命と生き甲斐は、徳川家を守ること。それなのに綱吉は、よりによって

お小姓、いってみれば男の側室に将軍職を継がせようとしたのです。


綱吉と柳沢吉里の仲は、本物だったと思われます。信子にしてみれば、

たまったものではありません。


しかもこの信子という女性、左大臣・鷹司教平の息女で、母は文智女王。

血筋が良く、自らも才色兼備ということです。プライドも、低くはなかった

よう。そんな彼女が、夫の「男の側室」の将軍の座につかれ、頭を下げな

ければならなくなるなんて、生き恥をさらすようなもので、とても耐えられな

かったでしょう。死んだ方がマシと考えるのも、無理はありません。


この『宇治の間』、ずっと「将軍の亡霊が出る」、「正体不明の幽霊が出る」

との噂が立って、誰も近づかず、「開かずの間」となりました。恐らく、綱吉

の死の真相を、大奥の誰もが知っていたのでしょう。ただし、幕府の公式

文書にこの真実を書くわけにはいかなかった。そんなところだったと見て

間違いないと思われます。