遊女の意地VS斬り捨て御免 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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江戸時代には、形だけ。あってなきが如しの法律が、沢山ありまし

たが、斬り捨て御免も、それに近いものでした。


私たちは子供の頃、武士がやりたい放題で気に入らない町人を

殺しても平然と町を歩いていたように教えられていましたが、とん

でもない話で、実際にはほとんど行われたためしがなかったよう

です。


ただ、今「ほとんど」という言葉を使わせてもらったように、ゼロでは

ありませんでした。

一例を紹介します。これも、「斬り捨て御免」の一種と考えて良いと

思われます。


伊達正宗を輩出した伊達家は、家康から62万石に加増され、領地

である仙台は北の雄藩に発展しました。その仙台藩3代目藩主で

伊達正宗の孫でもある、伊達綱宗が、吉原一の人気遊女、2代目

高尾太夫にのぼせ上がります。


吉原では、少女の時から学芸や行儀作法を教育するケースが珍しく

ないのですが、この高尾太夫はそちらの出来も良かった上、まあ当然

のようにすこぶるつきの美人でした。


そしてこの伊達綱宗、21歳の若さでしたがすでに側室を7人抱え、

6男10女をもうけるなど、非常に盛んでして、やがて高尾太夫のこ

とも、「身請けしたい」と言い出します。


太夫のいる三浦屋の主人との間で、金の話はつきました。彼女の

体重と同じ重さの金(こういうことがあるならダイエットは損ですね)

ということなので、仮に彼女がスリムだとしても多額です。家柄と合わ

せて、球の腰といえるでしょう。


しかし、肝心の高尾太夫本人が、「うん」と言いません。


「お聞き下さい。私には、言い交した男(ひと)がおります」


ということでした。そう。武蔵国坂戸5000石の島田権三郎利直と

いう侍です。


しかし綱宗はあきらめず、直接太夫に仙台行きを迫ります。しかし

太夫は、「野暮はおっしゃいますな」と言いました。その「野暮」という

ひとことが、綱宗の逆鱗に触れます。


「野暮とはなにごとぞ」

とばかり、彼は刀に手をかけます。すると太夫は臆することなく彼を

にらみ返し、

「仙台行きは、たとえ死んでも嫌でございます」

と言いました。


綱宗の怒りは更に増し、刀を抜いて本当に彼女をその場で切り殺し

てしまいます。


恐らくこれは、斬り捨て御免に相当はしたのでしょう。

しかし刑法に問われなかっただけで、伊達綱宗はこれによって21

歳の若さで隠居させられました。


つまり、一切の地位と権力を失い、側室も離れ、女遊びをはじめと

した自由までも失ったのです。


雄藩の飛ぶ鳥落とす勢いの大名ですら、こうなります。一般の御家人

や旗本がこれをやったら、刑は免れても、損害賠償等、今でいう民事

によって破産に追い込まれた揚句、浪人暮らしを強いられます。いや、

良くてそれです。実際には殺人罪にならないだけで、裁判において、

何らか別の罪を浴びせられました。そうしないと、庶民が納得しない

からです。


というわけで、斬り捨て御免は、武士にとって逆に生き恥をさらすよ

うなもの。あえて実行する人はいませんでした。


数少ない実例も、当人が「斬り捨て御免」を意識してやったものでは

なく、普通の殺人事件として扱われ、裁判の結果として適用されて、

殺人罪だけは免れたというものでした。


尚、伊達家はその後、2歳の綱村が藩主となりますが、治められる

はずはなく、権力の分散と争いによってしばしばお家騒動に見舞われ、

城内で殺傷沙汰も起きたことから、一時は「お家断絶」の危機にも追い

込まれています。


人々は、「高尾大夫の呪い」と揶揄しましたが、少なくとも、この斬り捨て

御免の余波が伊達家内及び所縁の人間たちの精神的混乱を大いに

招いたことは確かでしょう。