全ての道は Ayuに通ず  ~All roads lead to Ayu~ 
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ayumi hamasaki

ASIA TOUR 2021-2022 A
-23rd Monster-

 

セットリストと

スクリーン映像の謎解き




 

※ネタバレ記事になります











2021 10/2-10/3 

幕張イベントホール
セットリスト



 (オープニング映像)
・Dreamed a Dream
・Last angel 
・A Song for XX

・Real me
・Like a doll
・NO FUTURE

・Sexy little things
・Fly high
・STEP you

 (Ayu-ro & AyuTranceメドレー)

・Pray

 (neverending dream)
・Petal
・Memorial address
・Last Links

・My Way
・メドレー
  Movin'on without you
  Feel the love
  Many Classic Moments
  Connected
  Naturally
  Merry-go-round
  rollin'
  Sparkle

 (23rd Monster MV 続編映像)
・23rd Monster


--アンコール--

・SURREAL
・evolution
・MY ALL



(Like a doll、NO FUTURE、Petal、My Way がおそらく初歌唱)

(Prayは2015TAツアー以来?)
(Last Linksは2010ロックンロールサーカスツアー埼玉公演以来?)





スクリーン映像の謎解き

【オープニング映像】
あゆが宇宙の彼方から地球を見ている場面。
彗星の波動のような状態になって地球へダイブ
(あゆが黄色っぽい波動、ダンサーズが青っぽい波動)
そして地球(LIVE開催地)に着陸/降臨して
そのスクリーン映像の衣装で地球儀と共に
1曲目のDreamed a Dreamで登場。

これが表すものは、
あゆと一座は、
地球外から歌を届けるために、
エンタメの夢のステージを届けるためにこの地球(ほし)に降り立った存在ということ。

ここまでがオープニングムービーから1曲目の登場までの内容。

(※そして2曲目以降~本編ラスト場面までの内容はここでは割愛)



【本編最後の映像】
本編最後の曲はツアータイトルにもなっている23rd Monsterなのだが、
曲が始まる前にスクリーン映像がある。
このスクリーン映像は23rd MonsterのMVの一部の特定の場面が次々と映し出され、
そこにスタッフロール的な文字が出てくるというもの。
MVの一部というよりは、MVの続きの場面と言った方が正しいかもしれない。
そしてMVの続きの場面の流れで印象的に映し出されるのが、
画面の中に閉じ込められたモンスターのあゆが画面から出てくる場面と、
MVの最後の場面の石像の場面である。
石像の場面がホワイトアウト的に光って終わった後、その白い空間をあゆとダンサーズが歩いてくるというもの。
そして映像はここで終わり、ステージ下から一座がせり上がってきて
本編最後の曲である23rd Monsterを歌い始める。

この映像の中の白い空間からあゆとダンサーズが歩いてくる場面と、ステージで23rd Monsterを歌う時の衣装は同じであり、
またオープニング映像と1曲目のDreamed a Dreamを歌う時の衣装も同じ、
そしてオープニングと23rd Monsterのくだりが、どれも全部衣装同じである。


ここまでの流れで言うと、
オープニング映像からの1曲目→23rd MonsterのMV→本編ラスト場面の映像からの23rd Monster
という一つのストーリーの流れが出来上がっている作りになっているが、
ここで最初の映像と最後の映像は衣装や姿が同じであるものの
途中経過の23rd MonsterのMVの所だけ衣装や姿が違うのがポイントでもある。


では、 そこだけ姿が違う23rd MonsterのMV は何を表しているか。
これは、人々から怪物扱いされて人里離れた古城に隔離/幽閉されて封印された存在 ということを表しており、
画面の中にあるあゆは、封印されてもがいているあゆの状態を表し、MVの最後に出てくる石像は幽閉されたあゆと一座がまとめて石化されて完全に封じられた状態を表している。
衣装や姿がここだけ違うのは、 "人々から怪物扱いされた存在" の状態を表していたということ。

逆に言うと、オープニングと23rd Monsterを歌う時の姿の方が怪物扱いされていない本来の姿ということでもある。


これをストーリーの流れで追っていくと、
夢を届けるために地球に降り立った存在であったはずが、
いつの間にか世間に牙をむくモンスターのような存在として扱われることになり、
人里離れた古城に隔離されて封印された。
そして自らその封印を解き、また夢を届ける存在として活動を再開し始めた。

というストーリーが浮かび上がってくる。




【スクリーン映像が表しているもの】

結論から先に書くと、

この映像のストーリーが現実世界を暗示して表現しているものは、

ウイルス感染騒動とあゆ本人やエンタメ事業が受けた影響、
それに対してあゆが感じていたこと

である。


【Monster(怪物)という存在が表しているもの】
ウイルス感染騒動により、LIVEやエンターテインメントがまるで悪者扱いされ、
悪の存在、つまり怪物のようなものとして世の中から扱われることになってしまったということ。
騒動が始まって間もなく、あゆのホールツアーは最初の2公演を終えた後に
早い段階で中止して安全策を取ったが、
他アーティストはその後も粘ってLIVEを開催していたケースもあり、
それに対してまるでアーティストを人殺し扱いまでするような心痛むようなコメントまで横行した。
歌手やアーティストがLIVEをやったら人殺し扱いされるという現象を見て
今私たちはまるで人を襲う怪物のような扱いをされている、
とあゆが感じたことが23rd Monsterのテーマになったのではないだろうか。
この "世間から怪物扱いされている" というのが、まさに歌詞の中に出てくる
It's called A Monster という言い回しだろう。
自分で、自らの意思で怪物になったのであれば  I'm A Monster や born to be A Monster のような言い回しになりそうだが、
It's called A monster だと、
そう呼ばれている、世の中からはそういう存在として扱われている、という意味に寄ったニュアンスということになる。
そして、アーティストを殺人者扱いまでしてしまう、 "いきすぎた正義" もまた怪物なのではないか
You're also A Monster という言い回しがそれを物語っているような印象もある。



【23rd MonsterのMV】
怪物として人々から恐れられ、避けられ、人里離れた古城に隔離され、石像や画面の中という形で封印された
という内容だというのは先ほども書いたが、
人里離れた古城に隔離されている状態が表すのは、
アーティストやエンターテイナーは人の前に出て何かをやってはいけない
人の目に触れない所でおとなしくしていないといけない
という昨年の状況を表し、
石像や画面の中に封印された状態が表すのは、
LIVEやエンタメ事業が封印され、アーティストたちは封じ込められて身動きが取れない状態になったことを表している。



【封印された状態】
この封印された状態というのをMV内では2通りの表現で表しており、
一つが石像化された姿、
もう一つが画面の中に封じ込められてデジタル化された姿、である。


この封印された姿が2通りで表現されているのは、

身動きができない状態にされてはいるが、画面の中の映像としての存在だけ身動きができる
ということ。
これを現実に置き換えてみると、
エンタメ事業は休業を強いられることになり、LIVE活動は封じ込められて身動きができない状態ではありつつ、
オンラインLIVEという画面の中での形で活動することは認められた世の中ということを表している。
石像化された姿は現場でLIVEをすることが封じられアーティストが身動きが取れないことを表現しており、
画面の中に封印された状態だが画面内の映像としてだけ身動きができるという場面は
オンラインLIVEだけが許された世の中ということ表現している。



【封印が解けたあゆと一座】
23rd Monsterを歌う前のスクリーン映像で、あゆが封印された画面から出てきて石像化から解放されて動き始めた場面は、
オンラインLIVEに限定された世界から現場のLIVEやツアーの世界に戻ってきたということを表し、
今まさにここ(今立っているLIVE会場のステージ)に舞い戻ってきたということが表現されたもの。

ここで衣装や姿がMonster仕様だったのが、またオープニングムービーのきらびやかでスッキリした姿に戻ったのは、
エンタメ事業が世間から悪者扱い(怪物扱い)された時期がようやく徐々に解除されてきて、
アーティストやエンターテイナーが悪者(怪物)扱いされる風潮もだんだん解けてきてようやくアーティスト/エンターテイナーとして表に出れたことを表している。
また衣装だけでなくダンサーズの振り付けの一部の印象的な部分もMVとツアーとで変わっている。
MVの最後でダンサーズが腕をぶらっと下げて左右に揺れるゾンビダンスのような振り付けがあるのだが、

今回のツアーではそのゾンビダンスの振り付けがなくなり、他の振り付けに変わっている。
舞浜のLIVEではMVの内容を表現した内容だったので舞浜の時点ではこのゾンビダンスはあった。
これも映像のストーリーと関連しており、MVや舞浜ではまだMonster状態だった表現だったのが、
今回のステージでは怪物としての存在から脱却し、エンターテイナーとしての存在でステージが表現されているので、
ゾンビや怪物を彷彿とさせる振り付けではなくなったということだ。
よく見たらもしかしたらMVや舞浜のバージョンと振り付けが全体的に変わっている可能性もあるので、
ダンサーズファンの方はMV/舞浜バージョンと今回のステージでの振り付けの表現がどう変化しているのか見比べてみるのも面白いのではなかろうか。



【ツアーのサブタイトル】
オープニング映像→23rd MonsterのMV→本編最後パートのスクリーン映像
で表現された内容の謎解きは以上となるが、
要するにあゆが感じていたことは

ウイルス感染騒動からエンタメ事業は追い込まれ、
不本意ながらもエンタメ業界は世間から悪者扱いされることになってしまった。
元々は人々に夢や元気を与えるために人生を捧げ、
業界が一丸となって頑張ってきたのに、急に人殺し扱いをされる存在になって
世間から追いやられる存在になってしまったエンタメ業界を見ていると、
どうにも違和感があった 
ということではないだろうか。

その違和感を新曲の歌詞や映像という形に表現し、思いを込めた。
そして、世の中の状況は徐々に好転し、エンタメ業界は人々に夢を与える存在であった本来の姿に戻りつつあり、
怪物扱いされた状況を打ち破ってやっとステージに戻ってきたという
現実で起きていることそのものが23rd Monsterの歌詞やMV、
そして今回のツアー映像に表現され、まさにそれがツアーのサブタイトルになっているということ。
それをオープニングと本編の締めくくりにストーリー仕立てで配置することで、
このツアーのステージ全体が、 "その思いがコンセプトになっている" ということを伝えている構造になっている。




しかし、世の騒動は完全に終結したわけではなく、
今でもエンタメ事業は慎重な展開を余儀なくされており、
エンタメ事業やその催しに参加することに対して今でも賛否分かれている状況でもある。
どの意見が正しいという絶対解が存在しない情勢である以上、
アーティスト自身の発言も慎重にならざるを得ない。
あゆもまた、それに関する明確な意見は公言していない、というかしづらい立場でもある。
だが、あゆが昔からテーマにしていた「歌の中でだけは自由でいさせて」
というのが今回もまた、まさに当てはまる状況ではないだろうか。
自分は人々に夢を与える者として存在している、そして自分だけではなくエンタメ業界全体としても
その灯を消すわけにはいかない。
だがそれに対して懐疑的だったり否定的だったりする人々も未だにたくさん存在している。
しかし夢のステージを再開させてほしいと待っている人々もいる。
誰も一つの絶対的な正解の答えは導けない。
ならば結末はキミシダイでありボクシダイである。
"ボク" の選択は、夢のステージを再開することである。
そんな様々な想いを抱えながら作ったツアーであろう、というのも
このオープニング~23rd Monsterまでのステージ映像の展開から伝わってくるものであった。



【総括と補足】
このBlob記事では、
映像の中の流れや要素と、現実で起きていることがいろいろ合致するので
おそらくこういうことを言いたいのではないか
という憶測の謎解きを文章化してみたわけだが、
曲や歌詞や映像で表現されていることはむしろ現実とは関係のない全くのフィクションかもしれない。
ストーリーの流れの時系列も、

MV→封印から解放→地球に降り立つオープニング映像 

という順番の可能性もある。


映像の謎解きとして、1つの説としてここに提示してみたわけだが、
実際の映像を見てどう感じるかは、まさにキミシダイ。
ここに書かれた説はそれはそれとして、
現場の空気を感じ、映像と歌とパフォーマンスを実際に見て
感じて考えた印象こそがある意味それぞれの正解かもしれないので、
ぜひ現場でじっくり見て聞いて感じていただくことをお勧めします。
誰かが言った説をそのまま事実とするのではなく、
自分で考えることが大事なので、この記事がその考えるきっかけになれば幸いです。
その『現場の空気感』こそが、あゆが最も感じて欲しい部分でもあると思うので。

 

 

また、この記事で触れていない、

全体のセットリストの意味などもこの映像のストーリーと関わってくる可能性もあり、

今回のツアーは今まで以上に選曲やステージの作りこみが素晴らしいので、

全体の内容をどう感じるか、ぜひ味わってみて欲しいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

■FNS歌謡祭 『オヒアの木』での感動のパフォーマンス■

 

 

2020.12.02 FNS歌謡祭で歌ったオヒアの木のパフォーマンスが実に素晴らしい。

 

 

お腹が大きい妊婦さん状態でありながらのテレビ出演は、どういう姿で出演するのだろうと気になっていた。

妊婦であると知らない人が見たら全くそれに気付かない姿での出演。

ドレス姿の美しい歌姫、という路線でのパフォーマンスだった。

 

毎回テレビ出演すると様々な人がいろいろな感想をSNS等に投稿するわけだが、今回は感動/称賛の意見がすごく多かったように思えた。

 

容姿が綺麗だったのもあるが、実にすばらしかったのが歌だ。

なんとも丁寧で、優しさ、温かさ、情熱などがじっくり伝わってくるような歌声。

 

 

前半~中盤あたりはほぼ穏やかで優しめの発声。

息の成分を多めに含ませたサラッとした抑えめな声や、少し張ったような声など、メロや歌詞の世界観に合わせて絶妙にダイナミクスコントロール(抑揚の調節)をしながらの発声だったり、フレーズの出だしをクレッシェンド気味にふわっと発声したり、とにかく全ての表現が丁寧。

そして浜崎あゆみの特徴といえば、音の持続の長さやフレーズ感によって周期や揺れ幅のキャラクターの違うヴィブラートを何種類も使い分けるエモーショナルなヴィブラートであるが、このヴィブラートコントロールも全てが丁寧。語尾の音符と歌詞を優しく一つずつ置いていくようなヴィブラート。

 

 

中盤~後半でオケにリズム隊が入ってくるDメロあたりからは徐々に声を張っていく熱唱スタイルに移行していくわけであるが、ここでも熱量を上げつつも丁寧な歌唱が続く。

 

 

高音で声を張っていく所なども含め、各音域ごとの旨みのある声色が全て出ており、今の浜崎あゆみの発声のスタイルではこれが最もシックリ来るであろうというパフォーマンスを感じた。

 

いわゆる完パケCD音源を聴いた時や夏ノトラブルのオンラインLIVEで聴いた時よりも、今回の歌唱の方がグッと来るものがあった。

テレビ出演を録画したものをこんなに繰り返して見たのは初めてかもしれない、というぐらい繰り返して見ている。

おそらく同じことをしているファンもきっと多いのではないだろうか。

 

 

第一子が生まれてまさに子育て中、しかも第2子がお腹の中にいる状態での愛するわが子への歌。

歌姫のイメージを綺麗に表した大きいドレス姿、ストリングス入りの上品なタイプのバラード曲とラグジュアリーな背景セット。

それに優しくて丁寧で情熱溢れる歌。

この全ての要素のシナジー(相互作用)がガッチリと噛み合った、今しかできない歴史的名演だった。

こんなにいい歌を歌う人のファンなんだなぁ、と自分が浜崎あゆみのファンである原点を再認識したようなパフォーマンスでもあった。

 

 

浜崎あゆみのステージといえばエンターテインメントなステージ。

多くのメンバーを従えた動きのある 『動』 のパフォーマンスもエンターテインメントの一つの形であるが、

やはり歌に焦点を当てた丁寧で心のこもった歌、というもの自体が素晴らしいエンターテインメントの形であると思った。

 

今年の残るところの2種類のLIVEでもこのような素晴らしいパフォーマンスを表現してくれることを期待していよう。

■ツアー解析 『TROUBLE』 , 『misunderstood』 に込められたメッセージとは-

 

 

アルバム、ツアーともにタイトルワードになっていた『TROUBLE』。
これは何が TROUBLE なのか。
そして次のツアーのサブタイトルの『misunderstood』とどう関連してくるのか。


ここでは、『TROUBLE』は
あゆが感じている"自分の生き方と隣り合わせなもの"。
または、
自分の生き方や存在自体がTROUBLE生み出してしまう、と感じていること
だと解釈する。

ここからはセットリストや演出と関連させながら、それを順を追って解読していこう。

 

 

まずはセットリストだが、ツアー中ガラッと変更した部分もあったり、細かい抜き差しがあったりしたため
固定セトリを定めにくいので、
ここでは ツアー前半パターン、カウントダウンLIVE、ツアー後半パターン
と、3つの大枠に分けさせていただいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

まず序盤の3~4曲は、
『私は誰に何を言われようと私のやり方は貫くしそこは譲れない』
という内容の曲が続くセクション。


Wはオープニングで印象的な楽曲で、曲調も挑戦的でトラブル感のある楽曲であり、
アルバムやツアーのイメージを象徴するような1曲。
私はみんなが理想としているようなきれいなだけの存在じゃないけど、それでもいいの?
と言われているような内容だ。
Lady DynamiteやWARNINGも、両曲共に私は私のためにやりたいことをやるから周りは黙っててという内容。
WARNINGは特に途中から追加されたこともあって、その思いが強く出てきたのかもしれない。

 

1 LOVEの演出は大枠では従来のものと似た雰囲気であったが、今回は今までにない要素で気になったものがあった。
それはあゆやダンサーズの上にあった数値メーター。


これの数値が常にめまぐるしくランダムに変動していたのだが、一見ランダムに見えるこの数値の変化にはある法則のようなものがあるように見えた。
あゆと相方役ダンサーが濃い絡みをする場面になると、あゆの上にあるメーターの数値が乱れ始めて数値が急激に下がり、
あゆが相方役ダンサーから離れると数値が割と安定し始めて上昇する。
Abemaの映像ではメーターが映る場面が限られていてあまりそれが確認できないのと、全ての場面できれいにこの法則が当てはまるわけではないのでハッキリと言えるものではないが、現場で数値の変化を見てた限りではこの印象が強かった。
普通に演出の雰囲気から考えると、絡んでいる時は数値が上がったり離れたら数値が下がったりしそうなものである。
それがむしろ逆の現象が起きている所が着目点だ。
あゆが相手と絡むと乱れて下降し、離れると安定して平穏になるものとは何か。
これを考えるとズバリ当てはまるものは、『あゆのプライベートな男女関係に対するファンの温度感』ではないだろうか。
あゆの男女関係のことが浮上すると周囲がザワザワし始めて熱量が下がり、その話題がない時期はザワザワせずに安定する傾向にある。
その変動ぶりを演出とリンクさせてメーターの数値に表していたということだ。
そして終わりの場面では抱き合ったまま暗転して終わるのだが、ここでは徐々に数値が下がっていって0になり、最後には花びらのようなものが散って暗くなって終わってしまう。


私は誰かと結ばれるとみんなの心が離れて行って、それが認められない存在なんだ、という自分の存在の悲しさや理解してもらえないもどかしさを皮肉っているようでもある。
この"認められない存在"というのは後述する『misunderstood』とも関連してくる。
あくまでも個人的に感じた数値の法則と、ここ数年や現状で起きている現象をこじつけて結びつけたものなので確信はないものの、
セトリの流れやツアーに秘められたものを考えていくと、これがこの曲の演出の隠しメッセージとしての可能性は多分にあるのではないだろうか。
従来の1 LOVEの演出は映像とダンスやパフォーマンスがリンクした、セクシーでスタイリッシュな演出という印象が強かったが、今回は上記の数値メーターの件によって、メッセージ性として考えれば従来のものとは全く別の内容であったのかもしれない。

ここまでが『自分流を貫くセクション』だ。
このセクションは、ツアーで表したかったメッセージや『TROUBLE』の意味を表すというよりは、
それに辿り着くまでの『前提』だ。

 


続くセクションは、ドレスで歌うバラードセクション。
ツアー開始時から途中までしばらく歌っていた The way I amと、eternalが続く。
アルバム曲の中での最も人気の2曲だ。
このThe way I amは、最初に歌ったのが2018年のアリーナツアーPOWER of MUSICの大阪ファイナルの時。
これを歌い終わった後にMCがあり、要点を簡略化するとこのような内容のMCであった。

「皆さんはもうご存知だとは思いますが、私はたくさん間違いもあって、きっとみんなを傷つけたりがっかりさせたりしたことも多かったんじゃないかと自分を振り返って思いました。
そんな私でもずっと一緒にいてくれたり、20周年ツアーの最終日を迎えられる事を心からありがたく思っています。
これからもそんな私ですが末長くよろしくお願いします。」
といった内容だった。

このMCで語った内容がアルバムやツアーのタイトルとして『TROUBLE』というワードをフィーチャーすることになった根底の精神ではないだろうか。
自分自身も、自分を好きでいてくれるファンも、お互いに
"浜崎あゆみは時々間違いをしてしまったりファンを悲しませてしまう存在なんだ"
と認識しているということ。
つまりあゆ自身が、自分の生き方には常にトラブルがついて回る、自分はトラブルが起きてしまう存在だ
という意識を象徴してアルバムタイトルやツアータイトルにした、ということ。
そこでThe way~の話に戻るが、この曲の内容は、
過去にも周囲をざわつかせてしまい、逃げ込むように海外に移住し、再び日本へ帰国し目を背けずに向き合ったことや、
ここ数年でのツアーの体調不良による公演中止など、自分でもあれはまずかったなと認識するような出来事に対しての反省と、
こんな私が必要なくなったらきっぱり捨てていいよ、でも好きでいてくれるのなら輝く未来を一緒に見たい、と願う内容である。
(ここで、"海外に移住→再び帰国して向き合ったこと" を敢えて話題に出したのは、次のEDMセクションへと繋がる部分だから)。
そして歌詞に出てくる"残酷な現実"というのは、自分のやり方を貫いて一生懸命伝えていくという生き方をしているからこそトラブルが生まれてしまう、かと言って誰かの理想のために偽りの自分を演じることもできない、ということが、あゆにとっての"残酷な現実"なのではないだろうか。

山梨2日目公演からセトリが変わり、このThe way I amがなくなりNo way to sayに変わった。
ここの部分の曲チェンジに関してはTA内に解説があったのでそちらを参考にしていただくのが良いだろう。
No way~に関しては季節的なことも含まれていそうではあるが、伝えたいことがうまく伝わらない、という部分が
やはりこれも後述の"misunderstood"に繋がる部分でもあるのかもしれない。

続くæternal。
この曲は常に演出や出演者などが変わり続けた曲で、セトリから外れたり復活したりもした。
この"演出や出演者が常に変わり続けること"自体が揺れ動いているあゆの心境の変化を表しているようでもあった。
eternalという単語は、永遠の という意味。
しかし、歌詞の内容的には永遠というよりはむしろ
永遠だと思っていた、永遠であってほしかった という気持ちが綴られている。
この曲に関しては興味深いギミックが隠されている。
曲名のæternalの æ という記号のような文字に関してだが、結果的に言うとこの曲ではこの文字記号自体に永遠ではないというメッセージが込められているとも考えられる。
それはLIVEの演出と関連させると導き出せる。
aとeが背中でくっついてできたような文字だが、
ここでは a がayu、 e はこの曲のライブパフォーマンスの相方役、にあたる。
主にこの曲の相方役はペイとリーであったが、偶然にもどちらも共通で名前に入っている文字は『e』だ(本人のインスタアカウントの名前がそれぞれ『syunPEY』と『Lee』)。
※尚、一時的にかずまが相方役をした日もあったが、何か理由あっての代役のようなキャスティングだったような印象があるので、ここでは一旦置いておく。
画像で解説をすると(これはa-nationの写真ではあるが)、

まさにあゆと相方役とが背中合わせでくっついていることから、
演出の象徴ともいえる場面と曲名の文字記号の æ をリンクさせて重ねているのだ。
ただそのポーズと文字を合わせただけではない。
"歌詞の内容"、"æternalの æ "、"演出の象徴的な場面"、"演出や出演者が常に変わり続けていたこと"、
これらを全て踏まえた上で表すものは、『永遠とは、常に背中合わせのものである』ということだ。
背中合わせ、つまり 体はくっついていて共にあることを望んでいるものの、互いが反対の方向を向き、意に反しているような状況。
永遠だと思っていたものは、意に反してふとしたきっかけでいつかは離れて終わってしまうものということだ。

ツアーコンセプト的に考えると、永遠だと思っていた愛や絆も、自らが引き起こしてしまったトラブルによって崩れてしまうことがある という意味を表していたのかもしれない。


次はツアー前半にセトリにあったLast angelだが、この曲はスクリーン映像やあゆとダンサーズの動きなどがよく作り込まれており、これもまたメッセージ色が濃かったような場面だった。
お姫様だっこ状態でグッタリしたあゆ、の場面から始まり、
空中都市を飛び回るような映像であゆは上段で歌う。
血しぶきのような赤い煙が出るとあゆは下に降りて行きペイと絡み始める。
赤いモヤのような映像が出てくると、周りのダンサーズは倒れている。
最後はペイが上段、あゆが下段に別れ、あゆは上に、ペイはあゆに手をかざして終わる、というもの。
最後のあたりは日によって演出が微妙に変わったりもした。
最初にグッタリして抱えられていることから、永遠が終わってしまった後の世界を表しているようでもあった。
血しぶきのような煙と倒れているダンサーズは死後の世界、つまり心が死んでしまったあゆの心境や、永遠だと思っていた絆が死んでしまった状況を例えて表したもののようだった。
ツアー後半でこの場面がなくなったことから、この心の死の世界からは解放されたのかもしれない。

 

 

Last angelの次は、EDMセクション。
Movin'on without you、Lelio、XOXO あたりは、
CoLOURS、PREMIUM SHOWCASE~A ONEの時期の曲が並ぶ。
ここで他のセクションを含めて全体的なセトリを見るとプレショーのツアーの選曲が多いことが分かる。
Last angel、Lelio 、XOXO、NOW & 4 EVA、Feel the love、など。
そこからアンコール明けのスクリーン映像のSorrowsに結んで考えると、
心境としてはプレショーからの2015年TAツアー&真夜サーの時期に近いものをあゆが感じているのではないかと推測できる。
前述した、トラブルからの海外へ移住→帰国して再び自分やファンと向き合った、あの時期だ。
あの時期と今回の時期と共通するのは、また絆が壊れてしまったかな、でももう一度愛を信じれるかな、という心境だ。

TAにも記述があったが、あのTAツアーで再びファンとの絆が深まったあの時と似た空気がある。
あの時も、JTBツアーでも、またトラブルで乱れちゃったな、という心境が
今回のツアータイトルの『TROUBLE』に繋がったのであろう。

 

 

続くセクションは、
現実と戦いながら再構築して進んでいくセクション。
We are the QUEENS では、トラブルによって壊れてしまったものを作り直し、
talkin'2 myselfでは、前述のThe way~で出てきた残酷な現実に振り回されながら自分と向き合い、
Survivorでは、その現実と、Last angelで表した心や絆の死の世界とを乗り越えたり戦ったりしながら生き抜いていく姿が綴られている。
そこからまた気持ちを切り替え準備が整ったら新たなスタートを切ろう!
という流れでのStartin'。
ここのあたりの流れもプレショー ~ TAツアー ~ 真夜サー の時の心境の流れと似た空気感がある。


そしてセトリの後半に出てくる
Love song 、 NOW & 4 EVA 、 The Show Must Go On 、MY ALL では
譲れない想いで愛を歌い続けること、ファンへの想いを歌うこと、ずっとライブやショーで伝えること、僕の全てであなたを守り続けること、
を歌う場面に繋がっていった。

 

 

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これらを全てまとめてみると、
この『TROUBLE』というワードやツアー内容に秘められた想いというのは、こういうことだったのではないだろうか。

 

自分が自分でいることや自分の生き方を貫くことは誰に何を言われても譲れない。
しかし自分の生き方を貫くからこそトラブルが生まれてしまうというジレンマや自己矛盾のようなものを常に抱えながら生きないといけない、という残酷な現実に悩まされ続けている。
そしてそのトラブルによって永遠だと思っていた絆は崩れたり、何かが心の中で途切れて心が死んでしまったかのような絶望感も訪れる。
そして気持ちを実直に伝えようとすればするほど歪んだ解釈で捉えられたり、
伝えようとしていることもうまく伝わらないことも多い中、
それでも分かってくれる人には全力で気持ちを届けたい。
何度そのトラブルに遭遇しても、それを許してくれるのなら、
それでも好きでいてくれる人たちがいるなら、何度でもそのトラブルと戦いながら絶対にその絆は守ってみせるし、愛を歌い続ける。


ということを表していたのではないだろうか。


これが最初に記述した、
アルバムやツアーのタイトル『TROUBLE』というワードに隠されていた想いの正体が
あゆが感じている"自分の生き方と隣り合わせなもの"
と解釈した理由だ。

 

そもそも浜崎あゆみというアーティストは、
ありのままの心象風景を歌詞に綴って歌う、というスタイルが軸になっているアーティストである。
つまり、誰かの理想のような存在になって架空の自分を演じて作られた世界を歌うようになってしまえば
浜崎あゆみというアーティストの本質的な魅力がなくなってしまうわけだ。
もちろんそういう架空の世界を作って歌うアーティストはたくさんいるし、それはそれで一つの形だ。
しかし、浜崎あゆみは揺るぎなく自分を貫く生き方でこそ生まれてくる想いを実直に歌うこと、が要であることを考えれば、
本人自身がその生き方によって生まれてしまうトラブルと戦いながら活動していかねばならない、ということにも繋がってしまう。
世間や会社の理想の形に沿って機械のように正確な歌を歌うアーティストもいるが、
浜崎あゆみはそれとは少し別のタイプのアーティストではないだろうか。

むしろ、そうさせられようとしたが、それと戦いながら自分流を貫いてきたアーティストだと思う。
その生き方を見ている側としてはやや危なっかしい場面もあるが、だからこそ生まれる歌や表現がある。
それも含めての要素を歌詞やステージングにエモーショナルな形で昇華させているアーティスト、
つまり、人間くさくて魂で勝負しているアーティストということだ。
ツアーに出てきた
「どれだけのことをしてきたかではなく どう記憶に刻まれるか-」
というメッセージも、まさにそのアーティスト性に繋がるものである。


しかし、そのスタイルは時に歪んだ解釈で捉えられたり、誤解されて受け取られることも多い。
それこそが次のツアータイトルにも入っているワード
『misunderstood』である。

単語の意味としては、
誤って認識された、誤解された、という形容詞の単語だ。

ここで重要な着目点が、以前の"ミスアン"とは違うということだ。
過去のアルバムタイトルになっているのは、
(miss)understood
という表記で、これはアルバムタイトル用に作られた造語だ。
misunderstoodではなく(miss)understoodという表記にした理由に関しては、過去のインタビューの資料がある。

(miss)=女性の敬称 と understood=理解された を合わせた造語だ。
つまり(miss)understoodというのは
『理解されている女性』と『理解されていない者』という相反する2つの意味が含まれているということ。
歌姫/スター として広く世間に認知された存在である一方、
でも本当の心の内は理解されていない、間違って認識されている、という状況を皮肉っぽく表した造語のようでもある。


しかし次のツアーのサブタイトルは、
『(miss)understood』 ではなく、
『misunderstood』 だ。

(miss)understood では 誤解/誤認識という意味と同時に理解されているという側面も含まれていたが、
今回の misunderstood では純粋に誤解/誤認識の意味だ。

つまり、あゆの中では以前よりも誤解/誤認識の方に意識が寄っている、
誤解/誤認識されている印象が強い のではないだろうか。


既に終了した方のTROUBLEツアーを一通り終えてみて
自分なりのメッセージを込めてやってみたものの、
それでも伝えきれなかったことや、伝わらなかったこと、
どこか分かってもらえなかったような感覚が残り、
続編として形を変えて再スタートを切ることを決断したのではないだろうか。

 

 

これから直後に控えている 4/6、4/7の POWER of A^3 は
おそらく20周年の締めくくりのファン感謝祭のようなものになりそうだ。
とすればこの TROUBLE 、 misunderstood とは一旦切り離して考えても良いだろう。

 

そして新元号の初日から始まる壮大な続編ツアーでは
どんなセトリやメッセージを込めた内容になるのか気になる所だ。
現在発表されている日程には misunderstood というサブタイトルがつけられているが、
それ以降に発表される日程にはまた違う章やサブタイトルがつけられているかもしれない。


ツアーのセトリや演出もそうだが、あゆの言動も含めて何を表現しようとしているのか、
それをどう受け取るか、どう認識するかによって
misunderstood の状況から understood の状況に変わるかもしれない。
僕達ファンがどう認識/反応するかによって、続いていくツアー内容やサブタイトルにも影響があるのかもしれない。
先日発売された Numero TOKYO のインタビューでは、「ホールの距離感では客席の反応がダイレクトに伝わってくる魅力があって、もっと掘り下げてみたくなった」という記述がまさにそれと関連する部分だろう。
最初に"これをやります"と、ツアーの始めから終わりまで全てを確定させて行うツアーというよりは、
伝える側と受け止める側の心境や温度感がどう変わっていくのか、によってツアー内容が決まったり変化したりする生き物のよう動きをするツアーになる可能性がある。

公式アナウンスにも記述があった
「どんな続編が、いくつ用意されているのか、それを知るのは"浜崎あゆみ"のみ。
 そしてそのすべてを目撃しなければ、このかつてない壮大なTOURの全貌を紐解くことは出来ない」
という部分がまさにそれを予告している。

 


情報が誘惑が溢れてるこんな時代だからこそ、
僕達はそれぞれの選択をして行くべきなのだろう。

 

misunderstood が understood になるのも
"あとは君次第" なのかもしれない。