JTBツアー
隠されたもう一つの大きなギミックの謎とは
前回のBlog記事ではツアーの各章の細かい部分や、それらが意味するものを記述してきたが、
今回の記事は全く別の視点の角度からの解釈によって
ツアーに隠されたもう一つの大きなギミックの正体を解説していこうと思う。
今回の解釈の結末は残酷な側面も掘り下げるので、無責任な解釈を読んでショックを受けるのは嫌だ、という方はここで読むのを止めていただいても結構です。
今回の主な視点は、
JTBツアーは、浜崎あゆみが2000年に開催したファーストツアー
第1幕&第2幕のセルフオマージュ的な作品のツアーだったということ。
セルフオマージュ、つまり自らの作品に対して敬意を持って似た内容やモチーフで作られた作品ということである。
まずは、ナレーション。
忘れることもできる
忘れずにいることもできる
けれど忘れられないこともある
夢の世界へようこそ
このナレーションは2000年第1幕のオープニングで流れたナレーションと同じものである。
また、他にも
限りあるときの中で
僕らはあといくつ喜びを知ることができるだろう
限りあるときの中で
僕らはあといくつ悲しみを乗り越えていけるだろう
もうすぐ夢の出口
僕らはまた現実を歩き出す
という部分のナレーションは2000年第2幕で流れたナレーションと同じものである。
この部分は一度に全部を読んでいたわけではなく、複数の場面に分けて読まれていた。
そして、2000年のツアーが第1幕、第2幕、という分かれた内容の構造だったのに対し、
JTBツアーも第1章~第3章という分かれた内容の構造で作られていたこと。
この共通点については、あゆ自身が過去の投稿でも触れている。
そして他にも興味深い共通点があり、今回はそれを主に掘り下げていこうと思う。
2000年ツアーのWHATEVER(everfree)と、JTBツアーのourselves、
この場面のギミックが共通しているということだ。
2000年第1幕のOPENINGのWHATEVERでは、全身シルバーの謎めいたエージェントのような集団が登場、WHATEVERを歌い終わる頃にボス格の一人がライトセイバーのような武器を持ってあゆを追い込んでいき、棺の中に閉じ込めてしまう。
その柩はエージェントたちによって運ばれ床に置かれて放置されてしまう。
あゆは葬られてしまったのだろうか。
2000年第2幕の後半で、everfreeの音源が流れ、スクリーン映像が進行する場面があるのだが、このスクリーン映像が今見るとハッとさせられる内容である。
写真の流れで解説すると、まず葬儀のシーンから始まる。
場面が寄っていくと第1幕でエージェントによって追い詰められたあゆの入った柩が登場。
葬儀の場面ということはやはりあのままあゆは葬られてしまったということか。
柩が開き、あの時追い詰められたあゆが入っているのだが、なんとその手にはあの時のエージェントのボス格が持っていたライトセイバーが握られている。
そして目が開き復活を遂げると同時にカメラが引いていき、葬儀に参列していた人たちではなく葬儀場は例のエージェントたちで埋め尽くされている。
そのうちの一人がメットを取ると、中にはあゆの顔をした人物が!
そこでスクリーン映像が終わり、第1幕オープニングのWHATEVERと同じ衣装を着たあゆがWHATEVERを歌い始める、
という流れである。
これらの写真と解説を読んで、おそらく「あっ!!」といくつかの気になる要素に気づいただろう。
まずは、2000年1幕のオープニングで謎めいた場面で始まった曲が、2幕の後半で関連する場面が登場するとともにまた同じ衣装で同じ曲を歌うということ。
これはまさにJTBの1章のオープニングで謎めいた場面で始まったourselvesが、3章の最後でまた関連する場面と同時に同じ曲を歌うという点が共通。
また、このギミックで使われた題材が2000年ツアーとJTBツアーともに『葬儀/葬列』であることが共通。
そしておそらくもう一つ大きな共通点であると思われるのが、自らの手で自分を葬る、という点が共通している可能性が高い。
これについては両ツアーそれぞれ解説をしていこうと思う。
まずは2000年ツアーに関してだが、前述のWHATEVERに関するストーリーを解析するにあたりいくつかの解釈ができそうな内容であるが、
ここではタイムパラドックス的な視点で解釈してみる。
2幕の柩に入ってライトセイバーを持ったあゆ自身が1幕のオープニングであゆを追い詰めたエージェントのボスと同一人物という解釈だ。
1幕の謎めいたオープニングの場面が2幕で明かされ、それが1幕のオープニングに時間が逆戻りしてループするということ。
この解釈だと、時間軸に沿って事実を順に追うというよりは『あゆの心象風景を表した描写』である線が強い。
あのシルバーのエージェントが何を象徴しているのかというと、おそらく『会社』ではないだろうか。
会社があゆを追い詰めていき、自由を奪って閉じ込めてしまうという場面であるものの、
その追い詰めている存在が、『会社側に染まってしまったあゆ自身』ということを表した場面ではないだろうか。
自由を求めて自分の意志で活動して行きたかったはずのあゆ自身を、会社の商品として会社側に染まってしまったあゆ自身が自分を葬ることになってしまったということだ。
そして会社側の人間、つまりアーティスト浜崎あゆみとして改めて歌い始める、ということ。
ここで肝心のJTBツアーに話を戻すが、あの葬列の場面は
まさに上述した2000年ツアーで表現された
『会社側のアーティストである浜崎あゆみが、意志を持った人間個人としてのayuを葬った場面』
と同じようなことが表現されているのではないかということだ。
2幕のスクリーン映像で棺の中にいるあゆとは別にメットを取ったエージェントの中身があゆ自身だったことから、
1幕のオープニングのシルバーエージェントたちの中身が全員があゆ自身であるという解釈もできる。
となると、またここでJTBツアーとの共通点が出てくる。
JTB第2章のalternaの、あゆのお面をつけたダンサーたちとそのバックで流れているourselvesのPVに出てくるあゆのお面をつけた人々。
どちらも、中心人物のあゆの周りにたくさんのあゆが出てきて中心のあゆをみんなで追い詰めてくる、という共通点だ。
この、『追い詰めてくるたくさんのあゆ』、が表すものはファンやアンチやメディアやいろいろな解釈ができるのだが、
2000年ツアーとの関連で考えると、『会社』を象徴している線が強いとも考えられる。
そして全員あゆの顔をしているのは、追い詰めてくるのが会社であると同時に『会社を背負った自分自身、会社側に染まらざるを得なくなった自分自身』を表しているということ。
そう考えると、2000年ツアーもJTBツアーも、どちらも
『アーティスト浜崎あゆみ』が、『個人の人間であるayu』を葬ること
が隠された主題であったのではないかということだ。
JTB3章のオープニングで、一番最初に幕がまだ開く前、その幕には大きなあゆの顔写真が描かれていたが、
これが本来は縦の写真にも関わらず横向きに描かれていたのが大きな違和感であった。
これがなぜ『横』なのかというと、
あゆが『立っている』状態ではなく、『横たわっている』状態だからだ。
そして、この顔写真自体がやけに色合いが白く顔色が悪く見えるのは、
血の気が引いて息絶える寸前だということ。。
そしてこの写真は歯を食いしばって悔しそうな表情をしており、唇だけがハッキリと色がついている。
悔しそうに反発するような顔で唇だけが濃い色がついているのは、例え息絶えても言葉だけは強く残してやるという反発精神の現れだからだ。
JTBツアーを通して、「昔々ある所に ~」というあゆのナレーションが流れたが、この3章の横向きの顔と同時にそのナレーションが流れる時のBGMが、やけに強く怖い感じの悲劇的な曲調だったのを覚えているだろうか。
これも、息絶える寸前で言葉を残そうと必死な状況を表した場面だからだ。
そしてもう一つ、このツアーで会場に大きく展示されていた『顔』があったのをご存知だろう。
第2章の、グッズ売場あたりに展示されていたWORDSの顔だ。
こちらは3章の横向きの顔とは全く違い、顔色は良いものの悲しく涙を浮かべている表情だ。
3章の横向きの顔が『葬られた個人の人間としてのayu』だとすれば、
こちらのWORDSの顔は、『アーティスト浜崎あゆみ』の顔ではないだろうか。
今思えば会場に存在した二つの垂れ幕でさえもギミックの一つであったということだ。
今回の記事ではさんざん2000年のツアーとJTBツアーとの共通点を説明し、それがセルフオマージュであるということを解説してきたわけであるが、
では肝心の、それが一体何を表しているのか、だ。
それは、
『あの時から思いはずっと変わらない』 という意味を表しているということだ。
JTBツアーで表している内容は、2000年の最初のツアーの頃からずっと思ってきたことだ、ということ。
これこそがJTBツアーに隠された大きなギミックの正体であり、2000年ツアーとの同じ共通点を長文に渡って解説してきたのはこれのためだ。
2000年ツアー当初から、プライベートの自由意思のある個人の人間としてのayuと、会社側のアーティスト浜崎あゆみと、自分の中で二つの存在があってそれぞれをどうやってバランスを取っていくべきなのか、
おそらく最初のツアーである2000年ツアーの時点から今までずっと葛藤をして悩んできたのだろう。
思えばその2000年ツアーによって耳に支障ができてしまったわけで、JTBツアーが始まる頃にその耳も悪化、もう片方の耳にも影響が出たり膝が悪くなったりしたという、そんな悪い要素すらも2000年ツアーと関わりのあるものになってしまった…。
アーティストである浜崎あゆみも、おそらく完全に会社に染まりきったわけではなく、個人のayuをどうにか守ってきながらバランスを取ってきたのだろう。
がしかし、
WORDSの顔は、ついにアーティスト浜崎あゆみが個人のayuを守りきれなくなって泣いている表情、にも見える。
それによって倒れてしまった個人のayuが意志を言葉に託して言葉だけは残してやると悔しそうに倒れてしまったということだ。
前回の謎解きBlogでは、
浜崎あゆみの活動を何度も終わらせようと思ったが、もうひとりの浜崎あゆみが終わらせなかったと記述したが、
この終わらせなかった浜崎あゆみは、僕たちファンが愛している浜崎あゆみでもあり、その僕たちに愛を返してくれて譲れない想いで活動してくれている浜崎あゆみでもある。
がしかし、この譲れない想いを貫くためには自分の中のもうひとりの『個人のayu』を犠牲(sacrifice)にせざるをえなくなってしまい、不本意ながらもその犠牲を葬るしかなくなってしまったのではないか。
それがあの第1章のオープニングの葬列である。
あのオープニングのナレーションは、言い方を変えれば
「昔々、きらびやかでおとぎ話のような場所を作り上げたひとりの女の子は、
その夢を叶え続けるために自分の中のもう一人の女の子を犠牲にして葬ってしまいました。
その夢は、とても残酷でリアルな夢になってしまいました
その夢こそが、今夜もまた始まる夢」
とも言い換えられるのかもしれない。
また、
「限りある時の中で ~」の部分のナレーションであるが、
「もうすぐ夢の出口」の後は2000年ツアーでは「ぼくらはまた現実を歩き出す」と続き、
2016-2017 CDLの時も、同様に「ぼくらはまた現実を歩き出す」と続いたのだが、
JTBツアーでは、もうすぐ夢の出口 の後、
「これは終わり それとも始まり 答えは君だけが知っている」に変わっているのだ。
この変わった部分を解き明かすとすれば、
20周年という区切りが終わりになるのかむしろ始まりになるのか、
という解釈もできるが、
これは終わり=個人の人間としてのayu の終わり
それとも始まり=開き直って覚悟を決めたアーティスト浜崎あゆみ の始まり
とも解釈できるのではないだろうか。
ツアーのギミックとして表した
『個人のayuの終わり』と『覚悟を決めて前進するアーティスト浜崎あゆみの始まり』という
相反する内容が同時に存在するものに対して、
どちらに視点を向けるのかは君の判断で答えを出していいよ
という意味ではないだろうか。
あゆが先日投稿した、この内容もまさにこの相反する2面性を表した投稿だったように思える。
ツアータイトルである
Just the beginning -20-
というのは、
20周年を迎えるにあたってあゆがアーティストとして前進するために自分の犠牲を葬る覚悟を決めたツアーだった、ということだったのではないだろうか。
そう考えるとデビュー20周年も、ただ単純に、手放しで おめでとう!!
というだけのものでもないような気もしますよね。
歴代アーティストCD総合セールス第4位、というものすごい記録もあるわけですが、
他の上位アーティストが複数人数のメンバー構成に対してあゆは一人でその位置にたどり着いたというのは、大変な負担で普通の人だったらとっくに倒れて身を引いてることでしょう。
それを貫いていくためにどれだけのものが犠牲になったことか。
そして今回まさに倒れてしまった、もう一人の個人意思のあるayuという存在に対しても、
僕たちファンもそれを守れなくてごめんね、とも思ってしまう。
しかし覚悟を決めたアーティスト浜崎あゆみにとっては、「ごめんね」よりも
純粋に笑顔で「おめでとう!!」の方がきっと嬉しいことでしょう。
20周年を おめでとう!! で盛大に祝う一方、
それによって犠牲になってしまった
個人意思のある一人の人間であるayuの存在も忘れてはならない。
そして、自分を犠牲にしてまで想いを貫いてきた愛すべき浜崎あゆみが、
僕らの おめでとう! で笑顔になってくれればと願うばかりだ。