全ての道は Ayuに通ず  ~All roads lead to Ayu~  -2ページ目

JTBツアー

隠されたもう一つの大きなギミックの謎とは

 

 

前回のBlog記事ではツアーの各章の細かい部分や、それらが意味するものを記述してきたが、
今回の記事は全く別の視点の角度からの解釈によって
ツアーに隠されたもう一つの大きなギミックの正体を解説していこうと思う。
今回の解釈の結末は残酷な側面も掘り下げるので、無責任な解釈を読んでショックを受けるのは嫌だ、という方はここで読むのを止めていただいても結構です。

 

 

今回の主な視点は、

 

JTBツアーは、浜崎あゆみが2000年に開催したファーストツアー
第1幕&第2幕のセルフオマージュ的な作品のツアーだったということ。

 

セルフオマージュ、つまり自らの作品に対して敬意を持って似た内容やモチーフで作られた作品ということである。

 

 

まずは、ナレーション。

 

忘れることもできる 
忘れずにいることもできる 
けれど忘れられないこともある
夢の世界へようこそ

 

このナレーションは2000年第1幕のオープニングで流れたナレーションと同じものである。

 

また、他にも

 

限りあるときの中で
僕らはあといくつ喜びを知ることができるだろう
限りあるときの中で
僕らはあといくつ悲しみを乗り越えていけるだろう
もうすぐ夢の出口
僕らはまた現実を歩き出す

 

という部分のナレーションは2000年第2幕で流れたナレーションと同じものである。
この部分は一度に全部を読んでいたわけではなく、複数の場面に分けて読まれていた。

 


そして、2000年のツアーが第1幕、第2幕、という分かれた内容の構造だったのに対し、
JTBツアーも第1章~第3章という分かれた内容の構造で作られていたこと。
この共通点については、あゆ自身が過去の投稿でも触れている。

 

そして他にも興味深い共通点があり、今回はそれを主に掘り下げていこうと思う。
2000年ツアーのWHATEVER(everfree)と、JTBツアーのourselves、

この場面のギミックが共通しているということだ。

 


2000年第1幕のOPENINGのWHATEVERでは、全身シルバーの謎めいたエージェントのような集団が登場、WHATEVERを歌い終わる頃にボス格の一人がライトセイバーのような武器を持ってあゆを追い込んでいき、棺の中に閉じ込めてしまう。


その柩はエージェントたちによって運ばれ床に置かれて放置されてしまう。
あゆは葬られてしまったのだろうか。

 

2000年第2幕の後半で、everfreeの音源が流れ、スクリーン映像が進行する場面があるのだが、このスクリーン映像が今見るとハッとさせられる内容である。

写真の流れで解説すると、まず葬儀のシーンから始まる。
場面が寄っていくと第1幕でエージェントによって追い詰められたあゆの入った柩が登場。
葬儀の場面ということはやはりあのままあゆは葬られてしまったということか。
柩が開き、あの時追い詰められたあゆが入っているのだが、なんとその手にはあの時のエージェントのボス格が持っていたライトセイバーが握られている。
そして目が開き復活を遂げると同時にカメラが引いていき、葬儀に参列していた人たちではなく葬儀場は例のエージェントたちで埋め尽くされている。
そのうちの一人がメットを取ると、中にはあゆの顔をした人物が!
そこでスクリーン映像が終わり、第1幕オープニングのWHATEVERと同じ衣装を着たあゆがWHATEVERを歌い始める、
という流れである。

 

これらの写真と解説を読んで、おそらく「あっ!!」といくつかの気になる要素に気づいただろう。
まずは、2000年1幕のオープニングで謎めいた場面で始まった曲が、2幕の後半で関連する場面が登場するとともにまた同じ衣装で同じ曲を歌うということ。
これはまさにJTBの1章のオープニングで謎めいた場面で始まったourselvesが、3章の最後でまた関連する場面と同時に同じ曲を歌うという点が共通。
また、このギミックで使われた題材が2000年ツアーとJTBツアーともに『葬儀/葬列』であることが共通。

そしておそらくもう一つ大きな共通点であると思われるのが、自らの手で自分を葬る、という点が共通している可能性が高い。
これについては両ツアーそれぞれ解説をしていこうと思う。

まずは2000年ツアーに関してだが、前述のWHATEVERに関するストーリーを解析するにあたりいくつかの解釈ができそうな内容であるが、
ここではタイムパラドックス的な視点で解釈してみる。
2幕の柩に入ってライトセイバーを持ったあゆ自身が1幕のオープニングであゆを追い詰めたエージェントのボスと同一人物という解釈だ。
1幕の謎めいたオープニングの場面が2幕で明かされ、それが1幕のオープニングに時間が逆戻りしてループするということ。
この解釈だと、時間軸に沿って事実を順に追うというよりは『あゆの心象風景を表した描写』である線が強い。
あのシルバーのエージェントが何を象徴しているのかというと、おそらく『会社』ではないだろうか。
会社があゆを追い詰めていき、自由を奪って閉じ込めてしまうという場面であるものの、
その追い詰めている存在が、『会社側に染まってしまったあゆ自身』ということを表した場面ではないだろうか。
自由を求めて自分の意志で活動して行きたかったはずのあゆ自身を、会社の商品として会社側に染まってしまったあゆ自身が自分を葬ることになってしまったということだ。
そして会社側の人間、つまりアーティスト浜崎あゆみとして改めて歌い始める、ということ。

ここで肝心のJTBツアーに話を戻すが、あの葬列の場面は
まさに上述した2000年ツアーで表現された
『会社側のアーティストである浜崎あゆみが、意志を持った人間個人としてのayuを葬った場面』
と同じようなことが表現されているのではないかということだ。

2幕のスクリーン映像で棺の中にいるあゆとは別にメットを取ったエージェントの中身があゆ自身だったことから、
1幕のオープニングのシルバーエージェントたちの中身が全員があゆ自身であるという解釈もできる。
となると、またここでJTBツアーとの共通点が出てくる。
JTB第2章のalternaの、あゆのお面をつけたダンサーたちとそのバックで流れているourselvesのPVに出てくるあゆのお面をつけた人々。
どちらも、中心人物のあゆの周りにたくさんのあゆが出てきて中心のあゆをみんなで追い詰めてくる、という共通点だ。
この、『追い詰めてくるたくさんのあゆ』、が表すものはファンやアンチやメディアやいろいろな解釈ができるのだが、
2000年ツアーとの関連で考えると、『会社』を象徴している線が強いとも考えられる。
そして全員あゆの顔をしているのは、追い詰めてくるのが会社であると同時に『会社を背負った自分自身、会社側に染まらざるを得なくなった自分自身』を表しているということ。

そう考えると、2000年ツアーもJTBツアーも、どちらも
『アーティスト浜崎あゆみ』が、『個人の人間であるayu』を葬ること
が隠された主題であったのではないかということだ。

JTB3章のオープニングで、一番最初に幕がまだ開く前、その幕には大きなあゆの顔写真が描かれていたが、
これが本来は縦の写真にも関わらず横向きに描かれていたのが大きな違和感であった。


これがなぜ『横』なのかというと、
あゆが『立っている』状態ではなく、『横たわっている』状態だからだ。
そして、この顔写真自体がやけに色合いが白く顔色が悪く見えるのは、
血の気が引いて息絶える寸前だということ。。
そしてこの写真は歯を食いしばって悔しそうな表情をしており、唇だけがハッキリと色がついている。
悔しそうに反発するような顔で唇だけが濃い色がついているのは、例え息絶えても言葉だけは強く残してやるという反発精神の現れだからだ。
JTBツアーを通して、「昔々ある所に ~」というあゆのナレーションが流れたが、この3章の横向きの顔と同時にそのナレーションが流れる時のBGMが、やけに強く怖い感じの悲劇的な曲調だったのを覚えているだろうか。
これも、息絶える寸前で言葉を残そうと必死な状況を表した場面だからだ。

そしてもう一つ、このツアーで会場に大きく展示されていた『顔』があったのをご存知だろう。
第2章の、グッズ売場あたりに展示されていたWORDSの顔だ。


こちらは3章の横向きの顔とは全く違い、顔色は良いものの悲しく涙を浮かべている表情だ。
3章の横向きの顔が『葬られた個人の人間としてのayu』だとすれば、
こちらのWORDSの顔は、『アーティスト浜崎あゆみ』の顔ではないだろうか。
今思えば会場に存在した二つの垂れ幕でさえもギミックの一つであったということだ。


今回の記事ではさんざん2000年のツアーとJTBツアーとの共通点を説明し、それがセルフオマージュであるということを解説してきたわけであるが、
では肝心の、それが一体何を表しているのか、だ。
それは、

『あの時から思いはずっと変わらない』 という意味を表しているということだ。

JTBツアーで表している内容は、2000年の最初のツアーの頃からずっと思ってきたことだ、ということ。
これこそがJTBツアーに隠された大きなギミックの正体であり、2000年ツアーとの同じ共通点を長文に渡って解説してきたのはこれのためだ。
2000年ツアー当初から、プライベートの自由意思のある個人の人間としてのayuと、会社側のアーティスト浜崎あゆみと、自分の中で二つの存在があってそれぞれをどうやってバランスを取っていくべきなのか、
おそらく最初のツアーである2000年ツアーの時点から今までずっと葛藤をして悩んできたのだろう。
思えばその2000年ツアーによって耳に支障ができてしまったわけで、JTBツアーが始まる頃にその耳も悪化、もう片方の耳にも影響が出たり膝が悪くなったりしたという、そんな悪い要素すらも2000年ツアーと関わりのあるものになってしまった…。

アーティストである浜崎あゆみも、おそらく完全に会社に染まりきったわけではなく、個人のayuをどうにか守ってきながらバランスを取ってきたのだろう。
がしかし、
WORDSの顔は、ついにアーティスト浜崎あゆみが個人のayuを守りきれなくなって泣いている表情、にも見える。
それによって倒れてしまった個人のayuが意志を言葉に託して言葉だけは残してやると悔しそうに倒れてしまったということだ。

前回の謎解きBlogでは、
浜崎あゆみの活動を何度も終わらせようと思ったが、もうひとりの浜崎あゆみが終わらせなかったと記述したが、
この終わらせなかった浜崎あゆみは、僕たちファンが愛している浜崎あゆみでもあり、その僕たちに愛を返してくれて譲れない想いで活動してくれている浜崎あゆみでもある。
がしかし、この譲れない想いを貫くためには自分の中のもうひとりの『個人のayu』を犠牲(sacrifice)にせざるをえなくなってしまい、不本意ながらもその犠牲を葬るしかなくなってしまったのではないか。
それがあの第1章のオープニングの葬列である。


あのオープニングのナレーションは、言い方を変えれば


「昔々、きらびやかでおとぎ話のような場所を作り上げたひとりの女の子は、
その夢を叶え続けるために自分の中のもう一人の女の子を犠牲にして葬ってしまいました。
その夢は、とても残酷でリアルな夢になってしまいました
その夢こそが、今夜もまた始まる夢」


とも言い換えられるのかもしれない。


また、
「限りある時の中で ~」の部分のナレーションであるが、
「もうすぐ夢の出口」の後は2000年ツアーでは「ぼくらはまた現実を歩き出す」と続き、
2016-2017 CDLの時も、同様に「ぼくらはまた現実を歩き出す」と続いたのだが、
JTBツアーでは、もうすぐ夢の出口 の後、
「これは終わり それとも始まり 答えは君だけが知っている」に変わっているのだ。
この変わった部分を解き明かすとすれば、
20周年という区切りが終わりになるのかむしろ始まりになるのか、
という解釈もできるが、

これは終わり=個人の人間としてのayu の終わり
それとも始まり=開き直って覚悟を決めたアーティスト浜崎あゆみ の始まり
とも解釈できるのではないだろうか。
ツアーのギミックとして表した
『個人のayuの終わり』と『覚悟を決めて前進するアーティスト浜崎あゆみの始まり』という
相反する内容が同時に存在するものに対して、
どちらに視点を向けるのかは君の判断で答えを出していいよ
という意味ではないだろうか。


あゆが先日投稿した、この内容もまさにこの相反する2面性を表した投稿だったように思える。

 

ツアータイトルである
Just the beginning -20-
というのは、
20周年を迎えるにあたってあゆがアーティストとして前進するために自分の犠牲を葬る覚悟を決めたツアーだった、ということだったのではないだろうか。

 

そう考えるとデビュー20周年も、ただ単純に、手放しで おめでとう!! 
というだけのものでもないような気もしますよね。
歴代アーティストCD総合セールス第4位、というものすごい記録もあるわけですが、
他の上位アーティストが複数人数のメンバー構成に対してあゆは一人でその位置にたどり着いたというのは、大変な負担で普通の人だったらとっくに倒れて身を引いてることでしょう。
それを貫いていくためにどれだけのものが犠牲になったことか。
そして今回まさに倒れてしまった、もう一人の個人意思のあるayuという存在に対しても、
僕たちファンもそれを守れなくてごめんね、とも思ってしまう。
しかし覚悟を決めたアーティスト浜崎あゆみにとっては、「ごめんね」よりも
純粋に笑顔で「おめでとう!!」の方がきっと嬉しいことでしょう。
20周年を おめでとう!! で盛大に祝う一方、
それによって犠牲になってしまった
個人意思のある一人の人間であるayuの存在も忘れてはならない。

 

そして、自分を犠牲にしてまで想いを貫いてきた愛すべき浜崎あゆみが、

僕らの おめでとう! で笑顔になってくれればと願うばかりだ。

 

 

 

Just the beginning -20-
ツアーの裏に隠されたあゆの想いと告白

 

当blogは例年ではツアーが終わってからレポ記事をじっくり書いて投稿するのだが、
今回は謎解きが重要なツアーであるため、ツアー途中ではあるが年末の公演を控えた今、
ギミックの正体や謎の解明、セトリの曲構成の意味等を中心に記事をまとめてみた。
(※ネタバレ中心の記事です)。
もちろん個人の憶測の域を出ない記事なので、全く見当違いの可能性もあるというのを前提で読んでいただきたい。
そして、これを読んだ上で改めて第3章の公演を見て、その通りだと思うか違うと思うかはあなた次第ですが、自分なりの解釈でツアー内容を楽しんでいただければ、と思います。

 

各章基本セットリスト

 

要点をピックアップ
まずはツアーの演出やセトリ等に散りばめられている特徴や要点を、順不同に箇条書きでピックアップしてみよう。

 

・第1章は葬列から始まる。
この葬列はサブステに向かってダンサーズが歩いて薔薇を一輪ずつ供えるのだが、供える所がサブステのAマークの中心の部分である。

・1曲目のourselvesはメンバーの構図やスクリーン映像含め、『最後の晩餐』を表している。


・第1章の1曲目がourselvesで始まり、第3章の最後でまたourselvesで終わる。
 1~3章のツアー全体、特に本編全体が『1つの最後の晩餐』を表しているとも考えられるが、『これで最後だと思ったはずのものがまた幕が上がりまた次が始まるということ、それをループのように繰り返している』とも考えられる。
・第3章のourselvesは第1章の時と違い、後奏(曲の後半)が長く、最後の部分に特徴があり、第1章の時と違いダンサーズが全員薔薇を持った状態で終わる。
この3章最後の『薔薇を持ったダンサーズ』は第1章のオープニングの葬列に登場するダンサーズそのものであり、1章の幕開け前の葬列に続くという意味を表している。
・時系列的に、スタート地点と終わり地点を考えるとすれば、1章のourselvesが始まる時に幕が上がる所がスタート地点で、1章の最初の葬列で全員が薔薇を供え終わった所が終わりの地点。
 敢えて1章の序盤に終わりの場面と始まりの場面を並べているのは、終わったはずのものがまたすぐに始まるということ。
・ourselvesの時のバックスクリーンには1章・3章共通で、暗闇の空間の中に壁や柱や階段がいくつも浮遊し、それが逆さまになったり止まったり動いたり回ったり、混沌とした空間が描かれている。


 これは『時空の歪んだ世界』の中に迷い込んでしまったことを表している。
 よく見てみると、最初の『最後の晩餐』の背景と思われる壁と柱の中央の外側にはこの暗闇の混沌とした光景が既に存在している。


・これで『終わり』にしようという最後の晩餐だったはずが、時空の歪みによってまた振り出しに戻って『始まり』になる。
 それを繰り返してループしているということ。
・1、2、3章に全て共通しているもので印象的なのが、ourselvesとPieces of SEVEN。
 2章はourselvesは歌わないがスクリーンにPVという形で登場。
 この2曲に共通して表現されている要素が、上記でも記した『時空の歪み』である。
 ourselvesは1章3章ともにスクリーン映像で時空の歪みが表現されており、2章のourselvesはalternaを歌ってる後ろでPVの映像を流しているわけだが、このourselvesのPVを改めて見てみてほしい。
 このPV自体もまた映像が止まったり動いたりスローになったり時間が逆戻りしたりするPVで、終わりの場面が最初の場面のような作りのPVなのだ。
 Pieces of SEVENはダンサーズとパフォーマーによるパフォーマンスであるが、まず最初に出てくるステッキが重力の歪みの影響で地面から離れなくなったり空間に固定されて動かなくなったりする。
 街中にダンサーズ&パフォーマーが次々と登場した後、何かにとりつかれたように時間がゆっくり流れたりあり得ない方向に体重が傾いたり、重力に反するようなバランスでのパフォーマンスが繰り広げられたりする。


 更にそのスクリーンに映っている街中の街頭やベンチなどが宙に浮いたりする場面もある。
 このパフォーマンスセクションもourselves同様、時空の歪みを表現したパフォーマンスと言える。
・第2章の最初の曲のalternaはouselvesと似たような世界観で、ourselvesのPVがバックに流れて、それに準ずるようにダンサーズがあゆと同じお面をつけている。


またあゆが前方に伸びた椅子の道を進むも、ダンサーズに捉えられて連れ戻されてしまい、しばらく倒れてから起き上がる演出などが印象的。
・第2章のみ、sacrificeというサブタイトルがついているが、sacrificeの意味は『犠牲』。
 また細く言うと『十字架上のキリストの犠牲』という意味もある。
・Kiss o' kill~Free&Easyの所で十字架が登場し、あゆがそれに磔状態になるような演出がある。
 『最後の晩餐』が出てきた以上、イエスキリストに関連づけられたストーリーが展開されているわけであるが、1章と2章の展開がまさにそれが表されている。
 イエスキリストは最後の晩餐の後日、十字架に磔になり処刑された。
 これをなぞるように第1章のオープニングで最後の晩餐が表現され、第2章では十字架に磔になって犠牲(sacrifice)になる場面が表現された。そして1章開始場面で葬られた。
・また、この2章の十字架セクションが終わる部分で、リキが階段の上の方で逆さの十字に吊るされたような形で終わる。
 逆さ十字は『聖ペトロ十字』と言われ、キリストに対する謙虚や無価値の意味があり、俗説では離脱などの意味もある。
 これは一座から抜けて行くメンバーたちを象徴しているのではないだろうか。
 現に逆さ十字になって吊るされていたのは、現在一座から抜けているリキが担当していたのもこの意味が込められていると考えられる。

 


主要要素や特徴が暗示しているものとは 
ここまではツアー内容として表現されていた各章主要要素である『最後の晩餐』『犠牲』『時空の歪み』『ループのように繰り返すこと』が分かってきたわけであるが、
ここまでの段階ではまだ『目に見える要素』が判明したに過ぎない。
ではもう一歩踏み出して考えると、これらが一体何を暗示しているのか。
ここからが当記事の本題であり、また推測による謎解きである。 
結論から言うと、『最後の晩餐』はあゆ本人がこれで最後にしようと思ったLIVEや活動。
『犠牲』は最後にしようと思ってやってきたのに最後にできずに苦しんでいたあゆ自身。
『時空の歪み』は、本来あるべき状態、思っていた状況とは違う方向に事が運んでしまい、時間が逆戻りするように再びスタート地点に立ってしまうということ。
『ループのように繰り返すこと』は、これで最後にしようと思ったLIVEにも関わらず結果的にそれを終えたらまた次を始めていたこと、それを毎年繰り返していたこと。
最後にしようと思っていたLIVEというのは、具体的に ”何年の、どのツアー” というよりは、今までの活動において幾度となく頭をよぎってきたこと。
「これで最後にしよう、今年で一旦終わりにしよう」、きっとあゆの活動において何度もそう思ってきたのではないかということだ。
過去の様々なツアーやLIVEやリリース活動などが、その時その時における『最後の晩餐』だったということ。
初期から例年に渡り、アルバムリリース~ツアーというのを一つのサイクルと考えると、その一つ一つのサイクルこそが、その当時における最後の晩餐だったかもしれない。
そしてその一つのサイクルの区切りを最後の晩餐として、それが終わったら『浜崎あゆみ』を葬ること、つまり世間から姿を消すことを何度も考えていたのではないか。
しかし、最後の活動を終えて幕を閉じて世間から浜崎あゆみを葬るはずが、また振り出しに戻って次の活動の幕が開いてしまうというのを、過去に何度も繰り返していたということ。
これが3章構成に渡って表現されてきたあゆの想いではないだろうか。
これは過去を振り返ってという視点での解釈になるが、現在と未来における解釈だとしても似たようなことが言える。
20周年というアニバーサリーを迎え、それで最後にしようと決めていたものの、また幕を開けてスタートを切るということを暗示しているのかもしれない。

 


浜崎あゆみとしての苦悩
なぜ何度もこれで最後にしようと思ってきた、または20周年で最後にしようと思っていた、という結論が導き出されたのか、それは各章に散りばめられた選曲が鍵を握っている。
それは、浜崎あゆみとしての存在や活動においての苦悩が多かったということ。
例えば第1章では主にWARNINGやWalk、第2章ではMicrophone、第3章ではLast minute、FLOWERなどがその鍵を握る苦悩を表した選曲だ。
また、alternaのバックで意味深に流れていたourselvesのPVに関してだが、このPVが出た当初によく言われていたのが、『アンチに追い詰められていく浜崎あゆみ』が表現されてるPV、だということ。
ourselvesのPVやalternaでの演出であゆのお面をかぶった人々は、『自分に興味があって注目しているにも関わらずファンなのかアンチなのか得体のしれない存在』だということ。
PVではあゆを追いつめていく様が描かれているが、alternaのステージでは、そこから逃れようとするがその得体のしれない存在によって引き戻されてしまい逃れられないということが表現されている。
1章と2章の共通選曲であるMirrorcle Worldもまたその苦悩を内包した楽曲と解釈できる。
ちなみにこの曲がリリースされたのは、10周年記念シングルとしてだった。
が、おめでたいリリース楽曲であるにも関わらず、明るいお祝いムードの曲ではなく、歌詞の内容は、始まり・終焉・白旗・犠牲者などの意味深なワードが並び、ダークで強めの楽曲であった。

10周年の時にも、今回と同じような想いが込めて作られた楽曲だったのかもしれない。
alternaでお面のダンサーズがあゆを連れ戻す場面と、「ただ前に進めとあなたが言うじゃない」の部分とがリンクするような印象もある。
他にもそれに該当するような歌詞の選曲が散りばめられているはずなので、それぞれ解釈を広げていくのも面白いと思います。

 


譲れない想い
ここまでの解釈では、苦しみや悲しみ、迷いや犠牲、終わりたいのに終われない現実などの、
ネガティブな側面ばかりの解釈を解説してきた。
目に見える要素やギミック的には、ネガティブな側面の要素が多い。
が、ここまではストーリーの前提であり、全体で言いたいことの半分ぐらいの要素だ。
残りの半分は、浜崎あゆみの中のネガティブな自分に対しての、もう一人の浜崎あゆみが持っている強い想いだ。
ではこれほどまでにネガティブ要素が表現され、幾度となく終わりにしたかったあゆが、なぜ終わりにできずに再び幕を開けて次のスタートを繰り返していくことになったのか。
それは誰かの外的な要素の強制等によるものではなく、 ”もう一人の浜崎あゆみがそれを終わらせなかった” ということだ。
演出によるギミックや選曲によってのダークな世界やネガティブ面がツアーの世界観を覆い尽くしている半面、
もう一人の『それを終わらせなかった浜崎あゆみ』による選曲が実は多い。
それらの選曲でもう一人の浜崎あゆみが『終わらせなかった理由』として各章で繰り返し歌っていることが、これまでの活動を通して感じてきた『愛』だ。
苦しくて悲しくて空しくて、逃げたい、終わりにしたいという想いが強かった一方、
自分を応援してくれたり幸せを願ってくれたり共に歩んでくれたり、そんな自分を愛してくれている人々への想いの方が勝っていた、ということだ。
例えば第1章ではNEVER EVER、Fly high、Voyageなど、第2章では2曲のバラードや1 LOVEなど、第3章ではI am...、progressなどが、もう一人の浜崎あゆみが伝えたい想いによる選曲だ。progressの同じ未来信じてる「ふたり」を「僕ら」に変えて歌っているのもまた印象的だ。
これもまたそれぞれの解釈で他にも該当する楽曲を探してみるのはいかがだろうか。
更に言うと、Who...、MY ALL、TODAY等のアンコールの最後に歌う楽曲もそれに該当するわけだが、
ツアーの『核』となる楽曲であるourselves、新曲かつ最も今の気持ちが綴られているであろうWORDS、そして第1章の一番最後と第3章の最後に歌うLove songの3曲、特にこの3曲は歌詞全体がこのツアー内容に隠された想いそのものではないだろうか。
そう考えると、20周年を目前にした今に始まったことではなく、ourselvesをリリースしたあの当時からもこの想いはずっと続いていたのかもしれない。
そして長年繰り返されている想いと共に、結婚があったり、メンバーが変わったりしていることがあったのをVirgin roadや逆さ十字で振り返ったり、
また第1章の葬列のバックで流れるドームツアーのオープニング曲や、第3章ではMADE IN JAPAN風のセクション、ぱわみゅ風のセクション、プレショー風のセクションなど過去のツアーを彷彿とさせるセクションも作ったりして振り返っているのではないだろうか。
各章のセトリの選曲は、この『終わりにしたかった自分』を表す楽曲と、『終わらせなかった自分』による楽曲を中心に構成されており、alternaやMirrocle worldのように、その両方の自分が存在しているような選曲もある。

 


ツアーに込められた想いとは
12/6にインスタに投稿された、ourselvesの歌詞の一部である「世界中の誰も知らなくていいから、たったひとり、あなただけには知っていて欲しい」。
という部分であるが、この部分こそが最も伝えたかった部分ではないか。
苦悩によって何度も終わりにしようとしていた事実は立場上表立っては言えないことではあるが、ツアーの芸術表現として、本当の自分が感じていた秘密は歌の中で伝えたいから、その表現を読み解いて私の言えなかった心を知っていて欲しい、ということ。
来年で20周年を迎え、おめでたいことは間違いないものの、そのおめでたい日を迎えるために浜崎あゆみとして犠牲になったものや、抱えていた苦しみや悩みを繰り返してきたことを打ち明けておきたかったのだと思う。
そして12/10にインスタに投稿されたLove songの歌詞の一部を含んだ投稿で、例え犠牲になって苦しみがあったとしても、それ以上に譲れない想いがあるということも同時に伝えたかったのであろう。


インスタ&Twitterに投稿される内容が、ツアーの補足的であったり、その鍵を握る内容の投稿であったり、ツアーの進行とリンクしている点も見逃せない。

 

ここまでを全て踏まえた上で、各章のオープニングで流れるあゆのナレーションを改めて読んでみると、「残酷でリアルな夢」という引っかかるワードの謎が解けると共に実に感慨深い内容であることが分かる。

 

昔々あるところに ひとりの女の子が煌びやかでおとぎ話のような場所を創り上げました
彼女の夢はその場所を訪れた人が永遠に忘れることの出来ない一瞬を与えること
年齢も性別も肩書きも関係のない一瞬
それは君でありあの子であり私である
さぁ今夜もまた、残酷でリアルな夢を始めましょう
その場所の名は-

 

20周年の前夜とも言えるような『Just the beginning -20-』という名の今回のツアー。
それはまるでおめでたい日を迎える前の日の夜に、
「あのね、今だから言いたいんだけどさ、実は今まで私こんな気持ちだったんだ。
でも前を向いて明日を迎える準備はできているよ」。
と打ち明けているかのような、秘密の告白のような内容だ。

 


総括
例年ならばツアーというのはまずアルバムリリースがあってのものであった。
しかし今回はツアー開始時にアルバムリリースがないどころか、途中たった1曲の新曲で2章以降を開催するという、
例年の傾向から考えたら、これで内容の違うことを3章もできるのだろうか?
と思ったものの、今思えば逆に新曲が1曲しかないのにここまでの壮大な構成を表現しているのが素晴らしい。
そして3章構成に分かれていることで、3章の後半でハッとする展開になるという意味もあった。
ツアーが始まって間もない頃は、例年よりコンセプトのハッキリしないツアーでいまいち掴みどころがないようなツアーだと感じていた。
が、謎が解明されていった時にはむしろガッチリとしたコンセプトがあったことに驚かされる。
また、敢えて表立ってコンセプトを出さずに、 
”内容をよく見て裏に込められた意味を解明した者のみがそのコンセプトを知ることができる”、という性質が、
「世界中の誰も知らなくていいたったひとりあなただけは知っていて」「世界中の誰も知らないけれどたったひとりあなただけに見せている」という、ツアーの核となる楽曲の歌詞とリンクしているというのも大きなギミックの一つではないだろうか。
おめでたいアニバーサリーを迎えるにあたってのツアーだが、苦悩や秘密の告白という重い内容で構成してくるあたりが、いかにも浜崎あゆみらしいですよね。

さてここからは大晦日公演や年を越えての残りの公演、一夜限りの2.5章などが控えており、
内容の変更や新曲披露などの可能性もあり、まだ解明されていないギミックなどが判明するかもしれない。
20周年を楽しみにしつつ、これらのギミックの謎解きもしながら残りの公演もじっくり見てみてはいかがだろうか。
この記事がそれの手助けになり、今後の残りの公演がより一層味わい深いものになってくれれば幸いである。

 

 

 

ついに代々木第一体育館として、一旦最後のCDLになった今回。
事前に様々な意気込みがモデルプレスの特設サイト内で公開され、
LIVEレポートも各種メディアの記事にもいくつかアップされていましたが、
こちらの記事では公演内容の至る所に込められたあゆの想いの部分について、場面ごとに掘り下げていこう。
 
 

歴代のCDL映像コレクションのスクリーン映像で開始。

あゆの声でナレーションが流れる。
「忘れることもできる
忘れずにいることもできる
けれど忘れられないことがある
夢の世界へようこそ」
2000年の最初のツアー『第一幕』でも流れた言葉だ。
そこから1曲目が始まる。


▼kanariya

ある意味過去最高に衝撃的なオープニング。
今回の公演は、とにかくこのオープニングのkanariyaのファーストインパクトが強烈だった。
長くファンをしてきた人ならよく分かると思いますが、この曲は元々はLOVEppearsのアルバムの最後のシークレットトラックであり、後にREMIXではあるがシングルカットされPVまで作られておきながら、LIVEやイベント、テレビ番組などでも一度も人前で歌ったことがない『封印されし曲』である。
がしかし、ここ数年の間にあゆは"kanariyaのメッセージ"を所々に散りばめており、もしかしたら近いうちに歌うのでは?と思わせることがいくつかあった。

まずは、2015年10月。Twitter本人アカウント停止時のこと。
その時にあゆはヘッダー画像を真っ黒にし、"kanariyaのPVのアイコン" にチェンジした。
まさに目の前が真っ暗になり、声を押し殺さざるを得ない状況であるという無言のメッセージであった。
もう一つは2016年9月のMステ。
evolutionを歌った時の出来事だが、ダンサーズのアイメイクと腕のナンバリングが、まさにkanariyaのPVそのものであったこと。
このようにさりげないメッセージとしてはkanariyaは登場させてはいたが、決してそれを歌うことはなかった。
おそらくこのまま封印されたまま歌うことはないであろうと思っていたこの曲が、まさかのオープニングである!!
フライングのパフォーマンスもサブステで1曲目でkanariyaで、という時点でもう全く予想外のオープニングであった。
「え??これって、、kanariyaじゃない!? え…?うそ!?」と、ハッとさせられた人は多かったはず。
長く活動をしていれば、何をやってもネタ切れ、マンネリ、という声もそりゃ出てくるはず。
がしかし、それを良い意味で最大の形でぶち壊してくれたオープニングだったのではないだろうか。
そしていくつか気になる演出も散りばめられていた。
まずは自らがフライングパフォーマンスをして宙に浮いた状態で歌うことで、自らを鳥=kanariyaという設定にしていること。
そして開演前からサブステに置いてあった王冠。
あゆは一度地上に降り立った後、倒れこむようにしてこの王冠を苦しそうに拾い上げる。
が、決して自分でその王冠をかぶることはない。
そしてこの後また宙に浮かぶわけだが、ここで重要なのが、 "自分で王冠をかぶるのではなく、パフォーマーがあゆに王冠をかぶせる" 所だ。
そして王冠をかぶったまま宙に浮いた後、今度は自らの手で王冠を投げ捨て、落ちた王冠は音を立てて割れてしまう。
地位や名声、クイーンであること、自分が選んでそうしたというよりは、周りが仕立て上げたという側面が強いということを表した演出であり、
自由が奪われ、声を押し殺さないといけないのも、この地位や名声があるからこそ。ならばクイーンであることなど、捨てて壊してしまいたい、ということを表現しているようだった。
また、Vocalがやや歪んでいるのは、押し殺した声を絞り出しているということを表している、または歪んだ心の声を表しているのかな、とも感じた。


Last angel

まずは独立したイントロ部分から始まり、ここでダンサーズたちが登場。
一座全員揃ってという意味ではこれもまた第二のオープニングとも言えるような場面だ。
衣装の配色や、サブ始まり→メインに移動など、会場のステージ構成も含めてろけろツアー7daysの2曲目のLast angelを彷彿とさせるようなイメージだ。
シンプルな場面ながらも、改めてあゆ一座のかっこよさに感動する場面だった。
バックスクリーンには、先ほどのkanariyaでも登場した黒い鳥(パフォーマーが黒い羽を広げている場面がある)が煙に包まれながら羽を散らせている。
真っ黒になって羽も散って傷だらけになった鳥(またはangel)を表しているのだろうか。
思えばangelのPVでも天使を黒い鳥のようなものとして描いていることから、あゆの中の天使は黒い羽を持った退廃的なイメージがあるのだろう。
スクリーンにはギラギラとした夜の大都会の上空をスピーディーに飛び回る風景が映り、その前を一人のパフォーマーが飛んでいるという構図の場面が多い。
めまぐるしく移りゆく大都会の中を、傷だらけになって羽を散らせながらめまぐるしく飛び回る黒い鳥=あゆ自身 ということを表した場面のような演出。
また、黒い鳥がこの夜の大都会をめまぐるしく飛び回ってるようなスクリーン映像が、kanariyaの
街はざわめき人は苛立ち 夜に飛び込む鳥 という部分を表しているようで、kanariyaの流れやメッセージを残しつつのLast angelなのかな、とも受け取れる。
ギラギラとした衣装を着たダンサーズたちは苛立ちながらもめまぐるしく生きる都会人、黒い衣装を着たあゆは黒い鳥、を表しており、
そしてこの『黒い鳥』というのが、エンタメ業界の中で特別なポジションとして生きてきた中で、黒く染まってしまった、または染められてしまった自分自身を表現しているのかもしれない。
そしてその黒い鳥も、もう悔やまない振り返らない前に進むしかない、と覚悟を決めて飛んでいるのだ。


▼Fly high

今回のFly highはイントロ~Aメロあたりが従来とはかなり違うアレンジで展開。
Last angelのサイバーで退廃的な流れを残しつつの場面展開にも感じられた。
特徴的な「離れられずにいたよずっと 見慣れてる景色があったから」という部分が、"この会場を使えるのもこれで一旦最後になる"という状態で歌うと、またいつもとは違った意味にも聞こえてくる所が感慨深い。
今まで大切にしてきたホームであり聖地である会場を惜しんでも何も始まらない、
新たな気持ちで「始めなきゃ始まらないから」「ここに夢は置いていけない」
など、まるで今回の状況のために書かれた歌詞じゃないかと思えるほどに
"聖地代々木に対する思い入れを歌った曲" に聞こえてくる。


UNITE!

こちらは割といつも通りな感じで進むんですが、
間奏のみんなで拳を上げる所の振りがかなり変わっており、その場で一緒にやろうとするとちょっと手間どうんですが、
覚えるとむしろ前のより楽しいかも!
20周年イヤーに向けて、こういう今までとは変えたけどむしろ楽しい振り付け、とか今後も徐々に増えていっても面白そうですよね♪
不自由さや嘆きで始まったオープニングから、自由と愛を高らかに歌う曲へとセトリが進行し、ここの4曲の最初のセクション自体で、ストーリーの流れができあがっていたような感じもあった。


・(バンド曲)


poker face

ロイヤルステージから登場!
ロイヤルステージを使うのも、代々木でしかできないことへの回顧的な意味も含まれますね。
poker faceをロイヤルで歌うのは、たしかA museum以来でしょうか?
そして衣装と振り付けはA BEST LIVEの時とほぼ同じ。
歌い終えると上着を脱いで別の衣装になるのもA BEST LIVEと同じ流れ。

ANGEL'S SONG

衣装チェンジ後、サブステへの花道を移動。
この曲はPVの再現要素が中心になっている!
銀行、銀行強盗、時計が満月に見えて満月であゆが狼男に変身、狼男状態で強盗を撃破、宙返りする狼男、変身が解けて元の状態に戻るあゆ、銀行の受付の所に行くあゆ、元の状態に戻ったあゆを恐れて大量にお金が入った袋をあゆに渡す銀行店員、などなど。
また、PVで登場する銀行の名前がAngel's Bankであり、あゆが客席に向かって投げたお札にはAngel's Bankとの記載があることから、LIVEの設定での銀行の名前もPVと同じAngel's Bankである。
PVでは変身時の時計の時間が3時になっているが、LIVEスクリーンの時計の時刻は11時になっている。
これは、31日公演のANGEL'S SONGをやっていた時の時間が11時ちょい過ぎぐらいの時間だったため。
 

Depend on you

クレーンで旋回した後、クレーンが降りる所まで歌って終了。
このクレーンも代々木以外の会場ではほとんどやらないものなので、しばらくは見納めかもしれないですね。
これはまさに初期の王道ソング。

Beautiful Fighters

クレーンから降りた直後、そのままトロッコへ!
「みんなかわいい写真いっぱい撮ってね~♪」と言いながら北スタンド沿いのアリーナ外周を後方へ向けトロッコで進む。
トロッコはアリーナ後方を横切って南スタンド沿いからアリーナ前方へ。
これはアリーナ公演では初めての試み!
これは本当に素晴らしい企画構成でしたね。
写真撮影OKにしたのも、この場面がハイライト的な感じになっていました。
カメラを構えてる人にピースをしたりする場面も。
モデルプレスで今回の新たな試みと書いていたのも、おそらくこのトロッコのことであろう。


STEP you

アリーナ端の前まで行ってトロッコを降りてメインステージへ。
フォーメーションを取ったり踊ったり煽ったりして、ステージ下へ引っ込んで終了。

ピンクの衣装~チアリーダー風の青い衣装でいろんな場所を移動しながら歌った曲では、
かわいい演出に合う曲を次々と繰り出し、ファンが求めているであろう場面を夢のような客席の近さまでいって披露した貴重な部分でした。
 

・(ピアノメドレー/フライングパフォーマンス)



今回のMは、超ロングベールのMだ。
これもまた代々木だからこそ、の演出の一つではなかろうか。
とは言っても、先に言っておくとA museumの時は代々木に加えて横アリ公演でもこれはやっている。
がしかし、ろけろツアーの時は7daysの代々木限定であったのが記憶に新しい所だ。
やはりこれも普段のツアーではできないもの、そしてあゆのLIVEの歴史において最も特徴的なものの一つではある。
芸能ニュースでもこの場面は毎回メイン扱いで扱われるほどの、王道の名場面/名演出。


appears
No way to say

ドレス姿のまま、appearsをサブ周りで展開。
No wayはサブからメインへゆっくり移動しながら歌う。
「伝えたい想いは溢れるのに ねえうまく言葉にならない」
ここの部分が、今回のあゆのCDLに対する想いと重なってる部分のような気もしますよね。
毎回大晦日公演は新年の抱負を語ったり、必ずと言っていいほどMCコーナーがありましたが、
今回3daysともにMCコーナーがなかった理由がここの歌詞の部分にあると思います。


・(女子ダンサーズショータイム)


Because of You

ハード&セクシーのロック。
衣装のスカートの絶妙な短さとか、絶対領域ファッションとか、腰の曲げ方とか、
最近のあゆさんはこのハード&セクシー路線が一段と磨きがかかってきてます!
昔はこの曲はよく寝たまま歌う印象が強かったんですが、今回は今のパフォーマンススタイルで攻めた感じでした。


NEVER EVER

この曲と言えばやっぱり座り込みの熱唱!
おまけに間奏の座り込みのヘドバンの頭の振り幅がヤバイ!
曲に対する入り込み方が、以前よりもさらに深くなったような!?


talkin' 2 myself ( COUNTDOWN )

上段ステージで歌い、ダンサーズのフォーメーションやスクリーン映像も含めてカッチリと作っている。
これはけっこうなレア曲!
そしてなんと今回はこの曲でカウントダウン!!
今までの傾向的に、年越しの瞬間にこの曲をもってくるのがなんとなく意外というか。
一旦一区切りとなる今回の重要なカウントダウンの瞬間にこの曲を持ってきたのはなぜだろうと考えた時に、おそらくこれだという納得のいく理由があった。
「破壊することにより創造は生まれるということを君は知ってる」
10thアニバーサリーのオープニングのアカペラ部分でもあり、2015TAツアーのグッズのDESTROY TO CREATEという部分にも採用され、
更には今回のこの曲中で唯一ここの歌詞だけがスクリーン映像にピックアップされた、この曲の最も特徴的な部分だ。
これこそ今回のCDLの特徴を最も表しているフレーズではないだろうか?
次のオリンピックへ向けての『創造』のための、代々木第一体育館の現在の型を『破壊』することになる修復工事。
という意味で、この会場そのものに対してもこの歌詞が当てはまるのが一つ。
更にもう一つ肝心なのは、
今まで17年間続けてきた聖地でのカウントダウンを終了すること=破壊
一旦仕切り直して新たな道を切り開くこと=創造
と見立てており、
そしてこの『創造』こそが、『Just the beginning 20』の精神だということ。
ここまで考えれば、むしろこの曲以上に適した楽曲は他にあるだろうか??
という考えにさえ思えてくるものだ。
また、直接的に今回のCDLとは関係はないが、
「情報が誘惑が溢れてるこんな時だからこそ 僕たちはそれぞれの選択をしてゆくべきなのだろう」
この部分が、昨今の激化する芸能スキャンダル報道や、良くも悪くもSNSが大きな影響を持ちすぎている現代の特徴に警笛を鳴らしているようでもある。


Mirrorcle World

talkinに続き、新年が明けてからの1曲目がこれ。
「今のこんな未来を君は/僕は想像してただろうか」
「今のこんな未来を君は/僕は望んでいたのだろうか」
17年間も続けてきた聖地での年越しが、まさか修復工事という形でピリオドを打つとは、
僕は想像してただろうか、君は想像してただろうか
という意味にも聞こえてくる。
その状況に対して、
「始まりなのかって 終焉なのかって」
「開き直ったかって 絶望したかって」
と問いかける歌詞が続くわけだが、
この連続する問いかけに対して
『Just the beginning』=むしろ今始まったばかりだ
という今回のテーマこそがこの曲の問いかけに対する回答のようでもある。
 

(・We are the QUEENS )

唯一今回のCDLで引っかかった点である。
29日だけ披露という、珍しい形だ。
ミラワで会場のボルテージが上がった所で、一番新しくてロックで盛り上がる曲、
そして次の曲で本編ラスト、というセトリ配置的にもこれまた絶妙な配置で歌われた。
パフォーマンスそのものは先日のTAツアーを彷彿とさせるような身振りや動きで、
メインからサブまで歩いてきてサブでしばらく歌って、という流れであり、
TAツアーでやってた一座の動きをアリーナ版のような形に広く展開したようなイメージで歌っていた。
全体のセトリ的に29日の公演を見終わってから素晴らしいバランスと感じた。
が、テンションの上がるこの新曲1曲が抜けたことで全体のバランスも変わってしまったような。
しかしここで気になる点が一つ。それはkanariyaの王冠を割るシーン。
王冠はクイーンを象徴するシンボルであり、あの場面がクイーンであることを嘆いた場面だとすると
今回二日目からこの曲をカットしてしまった理由としては繋がる部分がある。
"誰もが思い出が蘇るような王道の選曲"というセトリ決めのサブテーマにもこれは当てはまらないし、
今までの代々木に対する思い出の場面という視点でもこの曲は対象外でもある。
コンディション調整のため、または1度やってみてシックリ来なかった、など理由はいろいろ考えられるが、
その理由は謎に包まれたまま終わってしまった。
29日のパフォーマンスを見た限りでは、個人的にはこれはあった方が良かったなぁ。
逆に言うと29日これを見れた人はすごくラッキーでしたよね。
2017年のツアーの基本セトリに組み込まれることを期待!
ハッキリ言ってこの曲はめちゃくちゃLIVE栄えします!


Voyage

本編ラスト。
20周年に向けての明るい未来、幸せになる未来を歌う所で締める。
スクリーンに過去のLIVE映像を流しながら振り返る場面も。
あゆの中のポジティブソングの切り札のようなこの曲で本編を締めるということが、
いかに前を向いて歩いているかという証そのものだろう。
2016TAツアーでの日替わり曲でもツアー後半でよく歌うようになってきた曲でもあり、この曲の精神は最近すごく大切にしているんだろうな、というのが伝わってくる。
本編の締めはVoyageという所がkanariyaに対する救済のようでもある。



~アンコール~


The Show Must Go On ~ Feel the love ~ You & Me ~ HONEY

ショーマス~フィール~ゆあんみらへんはメインステージで手振りしながら歌い、
HONEYはメインの上段ステージでダンサーズと並んで座って踊りながら。
横手振り系の楽しくて盛り上がる曲がメドレーで続く。

everywhere nowhere ~ WE WISH ~ independent ~ Trauma ~ + ~ Humming 7/4 ~ evolution ~ SURREAL ~ Boys & Girls

アリーナ端からトロッコへ、トロッコ→ロイヤル→トロッコはアリーナ後ろを回ってクレーンへ。
クレーン降りて横の花道を通ってサブ→メインへ。
本編とは逆回りでの移動だ。
SURREALとBoysらへんからメインステージで歌う。

ここの、ショーマスからボーイズまでの一連のスーパーロングメドレーの部分が今回のCDLの大きな特徴の一つですよね。
MCコーナーがない代わりに、様々な場所へ移動しながら一気にノンストップで駆け抜ける。
選曲も上げ系/楽しく一緒に踊れる系の楽曲を総動員したような感じだ。

ここでモデルプレス記事より抜粋すると、
"今回のLIVEはファンのみんなのために作るから、お祭り気分で楽しんでもらいたい"
という部分があった。
本編でもアンコールでもそうだが、ロイヤル・トロッコ・クレーン・サブステ・花道をフルで使う場面は、
まさにこの"お祭り"仕様。
初期からのCDLに毎年参加してる人は特に感じたかもしれないことだが、
昔は毎年CDLはお祭り感覚だったことが多く、今回はその感覚を思い出す内容だったということ。
昔のCDLは、イメージとしては、
"年末年始にリリースされるアルバムの中から数曲を初披露する場"というのと、
"お祭り気分で年越しを迎える"という大きな柱があった。
その後の傾向的には、徐々にあゆのLIVE/ツアーは芸術的志向、エンターテインメント的な志向が年々強くなり、
ツアーは大きなコンセプトを持った芸術的なものが作られ、CDLはそのツアーの導入的な内容 という傾向になっていった。
昔のCDLの "お祭り気分で年越しを迎える" という要素が今回のCDLで強く感じられ、
またそれは古参TAにとってすごく懐かしい感覚だった。
「そうだ、昔はよくここにあゆとお祭りの年越しをしに来てたな~」って。

そして、おそらくあゆ側もその感覚を今回敢えて取り入れたんだと思う。
と考えると、このアンコールのスーパーロングメドレーにも回顧的な要素があったということだ。
これは古参TAにとっては懐かしくて嬉しい要素だった。
更に言うと、アンコールのキャップが、これもまた回顧的な要素を感じた。
今回はつばが曲がったタイプの白いキャップを深くかぶるスタイルだった。
これがまた昔あゆがよくやってたスタイルだったような感覚が蘇った。

Boys後半では、「17年間ありがとう~!」と言いながら感謝の意味を込めてスタッフをステージに上げて記念写真。


Who...

「この3日間、なんだか上手に気持ちが言葉にならなくて、誰とも上手く話せなかったまま、ここまで来た気がしますが、
今分かったことは、だから私はずっとこうして歌っているんだなっていうことです、
今日ここでみんなと一緒に最後のステージを作れたこと、本当に感謝しています」
イントロでこの言葉を語ってからの歌いだし。
MCコーナーこそなかったものの、ここでこれを語ってくれたのが本当にグッときましたよね。
この語りの部分は、12/31にあゆが投稿した、
「想いは言葉ではなくラストステージに全て置いてくるよ」
という部分とセットになっていたような。
CDLは年が明けてからのMCコーナーで新年の抱負などを語るのが定番であったが、
まさかの今回は3daysともにMCコーナーがなし。
公演が終わった直後こそMCコーナーなかったな~今回。とちょっと物足りなさを感じたものの、
いろいろ振り返ってみると今回だからこそMCコーナーがなかったのがむしろ納得というか。
公演の全体の内容を考えてみると代々木に対する今までの想いも至る所に散りばめられているし、
積もった想いを言葉にするのもたしかに難しいかもしれない、
となると、このWho...のイントロで語ってくれたことが全てだったんですよね。

また、最後の曲にこれを選んだ所にもポイントがある。
あゆの"2大締め曲"といえば、Who...とMY ALL。
今回の締めはなぜMY ALLではなくWho...だったのかということ。
17年間の思い入れという視点で考えると、MY ALLの方はあゆの活動の"中期"ぐらいから歌い始めた曲であるのに対し、
このWho...は、2000年の第一幕、つまりあゆのキャリアの一番最初のツアーから歌っている曲だ。
もちろんその時のツアーにも代々木の公演があり、なんと最初にここの代々木の会場でLIVEをした日からこのWho...を歌っているということだ。
となれば、今回の締めにWho...を選んだのも満場一致で納得であろう。
こういう選曲一つとっても想いを込めて作ったステージだったということが分かる。

Bメロの
「喜びは誰と分け合って 誰と手を取り合ってきた 思い出しているよ」
の所で涙で詰まって歌えなくなる場面も。
歌詞を辿っていくと、歌い出しのAメロの所から、涙で詰まる所までの歌詞がまさに今の状況そのもの。

「本当の強さは誰が教えてくれて」の所で、後ろからダンサーズ&パフォーマーを登場させて紹介するような場面があり、
「誰が諦めないでいてくれた忘れないよずっと」の所でダンサーズ&パフォーマーの方を向いて指さしながら泣いてしまう場面があり、
一座の支えがあったからこそ今までやってこれた、という気持ちを表すような場面でしたよね。
「聖地代々木に集まってくれたみんなー!!」
と、"聖地" "みんな" というワードもちゃんと入れてくれてるのがまた良かったですよね。
モデルプレスの本人インタビューの中で、
「仲間たちのために自分がパフォーマンスすることでこれまでの恩返しができたらいいな
その結果がファンのみなさんのために繋がるんだと思います」
という部分があったが、ここの場面あたりはまさにそれを具現化したような場面だった。

「2017年も私たち一座にたくさんたくさん会いに来て下さい~!!」
「ありがとうございました~! 代々木~みんな愛してるよ~!!」
「どうもありがとう~!バイバイ~!!」
と力いっぱい叫び、幕が降りた。

そして、幕が下りた後のスクリーンには、
Just the beginning...
の文字が表示されてあり、
再びこの表題の精神の戻るという終わり方で、"終わり"よりもむしろ"始まり"という締めくくりで幕を閉じた。





---総括---
今のエンターテインメントスタイル的なステージでありながらも初期のお祭り感覚も入れ込んだ、聖地代々木の最後のCDLとしては全体的に素晴らしいバランスで素晴らしい内容だった。
意味深でシリアスな序盤、かわいい曲でみんなの所を回り、美しいドレスのバラード、セクシーなロック、お祭り騒ぎのアンコール。
浜崎あゆみが得意とする特徴的な要素が絶妙に盛り込まれた内容だ。
モデルプレス記事によると、セトリ構成は誰もが知る王道の曲ばかり、
という方向が予告されていたが、レア曲も良い感じにちりばめられており、ただ王道の曲で固めた内容だけではなかったのがまた良い意味で意表を突かれた。
今回のCDLは、みんなと今までの思い出を振り返る、周りの一座に感謝する、お祭りで年越しをする、
と様々なコンセプトがあったとは思うが、
やはり一番大きな柱となっているのは、タイトルにもなった Just the beginning の精神だろう。

ここでオープニングと締めとの関係性をピックアップしてみる。
オープニングで披露されたkanariyaだが、前述した通りこれは元々はLOVEppearsのシークレットトラックであり、
CDのトラックナンバー的には "Who...の中で歌われている曲" であり、その当時はkanariyaというタイトルもついておらず、 "Who...の続きの部分" でもあった。
ひねくれた捉え方ではあるが、Who...の曲中でありながらWho...の後にkanariyaが上に覆いかぶさって上書きしているような状態である。
がしかし、今回はそれが全くの逆なのだ。
1曲目にkanariyaを歌い、最後にWho...で締めている。
LOVEppearsリリース時にはkanariyaがWho...を上書きしたような状態であったが、
今はkanariyaをWho...が上書きした状態に逆転している!
当時の、浜崎あゆみであることを象徴したようなアルバム『LOVEppears』で最後に意味深な形で表現したkanariyaであったが、
今回のCDLではkanariyaの精神をWho...が上書きした逆転勝利したような構図になったということ。
代々木で最初にLIVEをしたあの頃 と、今とでは何が変わったか、
それは、一座に支えられながら途絶えることなく17年間も代々木で年越しをできるような自分になっていたこと。
今でも当時と同じようなkanariyaの精神はもちろんあゆの中ではあるだろう。
が、しかし、たくさんの人に支えられ信頼を築き上げながら"前を向いて歩ける自分"がkanariyaの精神よりも強く存在するようになったこと。
LOVEppearsリリース時=代々木で最初にLIVEをやっていた時期、
そこから代々木最後の公演の現在に至るまでに変わった自分、それを十数年間の経過における壮大なストーリーとして
kanariyaとWho...を最初と最後に配置して表現したステージでもあったということ。
これがオープニングのkanariyaと最後のWho...に隠された裏テーマであったとも考えられるのではないか。
あゆ自身がそれを意図してやったのかは分からないが、どちらにしても結果的にそのような構図ができあがっていたということだ。
これはつまり、あゆが公演中に語った
「17年前の今日、私たちはそれぞれの場所にいました。あの頃の自分に、今の自分はずっとずっと強く優しくなったよって伝えてあげて下さい」
この言葉そのものであり、あゆ自身にも当てはまる言葉だったということだ。
そしてその変わった自分であるからこそ、一旦ピリオドを打たなければいけない状況にも関わらず、
Just the beginning の精神に辿り着くことができたのではないだろうか。


20周年に向けて、まさに今が始まり。


この "beginning" から、 "20" まで今後どう展開されていくのか、

楽しみはまだまだ続く!!