今日はこれまで生まれてから歩いてきたことを考えた。自分の夢ってなんだったのだろう?
自分の夢は、「神さまっているのかな?」
という疑問の答えだったことに気づいた。思い出した。それで科学者になりたいと思った時期もあった。科学の先にその疑問の答えはあると思ったからだ。しかし、その答えが与えられたのは魔術という、もう一つの道を歩いた後だった。疑問の答えは、
「神さまはいる。」
だった。もう少し詳しく話すと神さまはいるという確信や実感が伴いだしてから、
「神さまがいるのなら、悪魔や魔神もいるだろう。その力を利用して、この世を薔薇色に暮らそう。だった。」
聖書では明確に禁止されているが、実際にそうなのか試してみないと分からないと思ったのでその道をゆくことにした。
研究者が疑問に思う領域を研究すべく、探求することに似ていると思う。
自分には何の博士号も学士号すらもないが、自分が求める本当の夢や幼児的欲求は満たされていたと思う。人間を生贄にした凄惨な悪魔崇拝がアメリカでささやかれているが、悪魔を研究する研究者たちが狂った姿だと思えば、想像しやすいのかもしれない。
拷問研究家とか、人格乖離研究者とか、そういう非倫理的な実験に取り憑かれた人間の姿が666を彷彿とさせるのだろう。
そんな彼らの姿は依存症のそれにも近いのかも知れない。悪魔崇拝を通して非人道的な行為をすることに快楽を得て依存に陥っているのだ。麻薬中毒やアルコール中毒とさほど変わらない。
この先、人間の学士号や修士号を取ることを予定して目標にしているが、すでに本質の目標は神によって達成されていると感じる。
人間の知識や知恵の及ばない領域があることを知っているからだ。人間の博士号などは、あくまで人間の力と領域だ。常識という範囲内の狭いものだ。常識に欠けるものが人間の世界で認められるわけにはいかないのだ。逆を言えば、常識という範囲内でしかないのだ。この世には、常識外の代物や人物や出来事などもある。まるで小説の中のジキル博士とハイド氏みたいな人物もいた。
今日は、み言葉が語ってきた。そのようなものだ。