まずは以下の概要をご覧ください。
マタイ24章の主人と奴隷の例えは
期間:西暦1919年(旧西暦33年)~大患難(旧1918年)
対象:ニューヨークの統治体(旧天に行くクリスチャン全般)
マタイ25章の花婿と十人の処女の例えは
期間:(?)~大患難(旧1918年)
対象:(?)
マタイ25章の主人と奴隷(タラント)の例えは
期間:(?)~大患難(旧1918年)
対象:(?)
残念ながら(?)印を付けた部分がまだはっきりしません。
今まで,上記の例え話は主人が不在にする際に奴隷に仕事を委ねて,主人が戻ってきたときに,委ねられた人がその仕事に忠実さや思慮深さを示してきたかが問題にされるという話だと思っていました。
ところが今回,マタイ24章45節はキリストの臨在期間に関する預言だっていうことになっちゃったんですね。
つまり,不在にするために臨在したということになります。
そして不在(臨在)期間中のシナリオはもう統治体により設定されちゃっています。
塔13 7/15 25頁 18節
先にあげた点を考えると,わたしたちはどのように結論することができますか?イエスが大患難の間に裁きのために到来するとき,彼は忠実な奴隷が忠節に時に応じた食物を召使たちに提供してきたことをご覧になるでしょう。イエスは喜んで二回目の任命 - 彼のすべての持ち物に対する - を行うことでしょう。
“In view of the foregoing, what can we conclude? When Jesus comes for judgment during the great tribulation, he will find that the faithful slave has been loyally dispensing timely spiritual food to the domestics. Jesus will then delight in making the second appointment - over all his belongings.” (w13 7/15 p.25 par.18)
しかも「彼は~ご覧になるでしょう」「イエスは喜んで~を行うことでしょう」ってちょっと上から目線。
主人と奴隷の立場逆転してる感じ。
なんか変。
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これではまるでキリストが無責任男にも見えちゃいます。
1914年に再臨を果たし,1919年にラザフォードとその側近たちを任命し

そして彼らに「飲んだくれになったらお仕置きしちゃうよ」
と警告してまたどこかに出かけてしまう。

そしてしばらくしてから突然戻ってきて
ラザフォードの後継者に「よくやった!」
というお決まりの一言を述べてから全世界の人間の前に現れ「お前たち 殺す」
(あるいは無言)と言って人類の殺戮を開始するのです。

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やっぱ変。
つづく