「よこしまな奴隷」の解釈 | エホバの証人研究(ブログ)

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マタイ 24:45‐51
45 「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。46 主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。47 あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。 48 「しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,49 仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,50 その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,51 最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。


この例え話の中で登場する「よこしまな奴隷」。

かつて,この奴隷について以下のように説明されていました。

*** 塔04 3/1 13ページ 2–3節 『忠実な奴隷』は試みを首尾よく通過する ***
「そのよこしまな奴隷」という言い方は,忠実で思慮深い奴隷についてのイエスの前述の言葉に注目させています。そうです,「よこしまな奴隷」は,忠実な奴隷の隊伍から出たのです。 どうしてそう言えるでしょうか。
 1914年以前,忠実な奴隷級の成員の多くは,その年に天で花婿を出迎えるという強い期待を抱いていましたが,その期待は実現しませんでした。そのことや他の物事の展開を見て,失望した人が多く,苦々しい気持ちになった人もわずかながらいました。その一部の人々は,以前の兄弟たちを「たたき」,キリスト教世界の宗教グループという「のんだくれ」と付き合うようになりました。


このように古い光では,よこしまな奴隷は忠実な奴隷級の成員から出てきた一部の人々であると説明されていました。

しかし,上記の考えを継続してしまうと,

統治体から「よこしまな奴隷」が出てくることになってしまいます。どうするのでしょうか?半年前の年次総会では説明はありませんでした。

あれから約半年,統治体はアイデアを練っていました。

そして今回のものみの塔で見解が明らかになりました。

塔13 7/15 24頁 囲みの記事

イエスは終わりの日によこしまな奴隷の級が存在するようになることを予告していましたか?
いいえ,確かに個々の人々の中にはイエスによって描写されているよこしまな奴隷が示しているような精神を表わす人たちがいました。わたしたちは彼らを背教者と呼びます。それらの人が油そそがれた者であっても“大群衆”の者であっても同じです。(啓示 7:9)しかしそのような者たちはよこしまな奴隷級を構成するわけではありません。イエスはよこしまな奴隷を任命するとは述べていません。ここでのイエスの言葉は実際には忠実で思慮深い奴隷級に対する警告なのです。

“Was Jesus foretelling that there would be an evil slave class in the last days? No. Granted, some individuals have manifested a spirit similar to that of the evil slave described by Jesus. We would call them apostates, whether they were of the anointed or of the “great crowd.” (Rev. 7:9) But such ones do not make up an evil slave class. Jesus did not say that he would appoint an evil slave. His words here are actually a warning directed to the faithful and discreet slave.” (w13 7/15 p.24 box)


よこしまな奴隷に関する記述は「忠実で思慮深い奴隷級」に対する警告にすぎない,という大胆な説明です。「奴隷」のような具体的なグループへの適用は不要であるという結論です。

しかし,自分たちへの警告の言葉といいつつも,その解説では”背教者”攻撃を続けてしまうところに,統治体らしさを感じます。

統治体の主張によると
忠実で思慮深い奴隷は任命されたグループとしてのであるが,
よこしまな奴隷はではなく「仮定」表現にすぎない。
ということになります。

しかし聖句を見ると,この例え話全体が仮定表現で成り立っています。
「忠実で思慮深い奴隷」も「主人が到着して,[忠実に仕事をはたしているところ]を見るならば」「すべての持ち物をつかさどらせる」ことになるという仮説条件のもとにあるのです。

今回,キリストが「到着する」のは将来のことであると見解が変更されました。しかし統治体は将来キリストが到着して自分たちが“よくやった”と言われるようになるとすでに宣言しています。

塔13 7/15 24頁 囲みの記事

忠実で思慮深い奴隷として共に奉仕する油そそがれた兄弟たちは主人の召使いを世話する方法について主人から責任を問われることを認識しています。これら任命された兄弟たちの心からの願いは自分たちの責任を忠節に全うすることであり,そうすることによって彼らは主人が最終的に到着したときに“よくやった”という主人の言葉を聞くことになります。

“The anointed brothers who together serve as the faithful slave recognize that they are accountable to the Master for the way they care for his domestics. The hearfelt desire of these anointed brothers is to fulfill their responsibility loyally so that they might hear a ‘well done’ from the Master when he finally arrives.” (w13 7/15 p.24 box)


「召使いを世話する方法」に関して言うならば,統治体は人命にかかわる輸血に関する解釈,人生を狂わせる予言解釈,家族をバラバラにする忌避の方針などで召使いたちを痛めつける歴史を積み上げてきたように思えます。

これに対してキリストが“よくやった”と宣言するようであれば,キリストの監督不行き届きとしか思えません。


つづく・・・