一応、前々回からの続きです。
いろいろなコメントをいただいて考えました。
JW長老のもつ問題点をひとつあげたいと思います。
心を裁くというお仕事。
長老たちはこれを自分たちに与えられた
使命だと教えられています。
サムエル第一 16:7
神の見るところは人の見るところと異なるからだ。
人は目に見えるものを見るが,エホバは心がどうかを見るからだ
長老たちはこう教えられます。
エホバは表面ではなく心を見られる。だから我々も 人の心を見抜いて裁こう
でも、もう一度読み返してみると
「神の見るところは人の見るところと異なる」と書かれています。
ですから
そもそも人間は神ではないのだから、心を裁くことには限界がある
という大前提があってしかるべきだと思います。
しかしJW長老は「心を裁く」という責務を繰り返し学びます。
例えば「神の群れを牧する(2010)」という長老マニュアルには
「純粋な悔い改めを判断する(p.91)」という見出しで数ページに
わたって裁くポイントが出ています。
要するに本当に悔い改めてるのかどうかその人の心を
判断せよという務めが長老たちに課されています
しかし数時間の審問で心を判定することなんてできるのでしょうか?
これは無理があると思います。
そして沢山のおかしな裁判が行われる可能性を感じます。
そして多くの苦しみを生じさせているのではないかと。
例えば、若い女性(JW)が異性を好きになったとします。
「世の人」を好きになってしまいました。
そして一線を越えてしまいました。
そして告白します。
長老たちの出番です。
彼らは「誠実な悔い改め」を見極めるという使命を帯びて
聴聞を始めます。
まずは長老マニュアルを前もって読んで思いを整えます。
神の群れを牧する(2010) 91頁 7章8節
後悔(悔い改め)の度合は罪の逸脱の度合に応じたものでなければなりません
逸脱の度合?
そして長老の質問が始まります。
どこを触られたの?
どのくらいの時間触られたの?
その時、どう思ったの?
それから姉妹を部屋の外で待機させこんな会話になります。
A長老: 皆さん、どう思いますか?これはポルネイアの罪ですかね?
B長老: 肝心なところの質問で姉妹はあいまいな答えしかしませんね。
A長老: そうですね。92ページには「その人は質問されたときに率直に
答えていますか?」と問われています。悔い改めの証拠が
見えませんね。
B長老: それに姉妹はずっと泣き続けてますが、エホバに非難をもたらした
ことよりも、恥ずかしさで泣いているだけのような気がします。
A長老: そうですね。エホバに非難をもたらしたという事が姉妹の口から
一度も出てこないですね。93頁にはこんな風に書かれてます。
神の群れを牧する 93頁
その人の悲しみは主にエホバを傷つけ神に非難をもたらしたからですか?
それとも家族や友達を落胆させてしまったことや自分が経験している恥ずかしさのためですか?
こうして終始悲しみで涙を流していた姉妹は「敬虔な悲しみ」ではなく
「世の悲しみ」を表していると判断され、排斥の決定が下ります。
でも、ちょっと待ってください。
散々、辱める質問をされて、恥ずかしさで打ちひしがれた状態になって、
それで何でも質問に率直に答えることを期待するほうがおかしいのでは
ないでしょうか。
それに「神に非難をもたらした}?? 何がどのように神に非難をもたらした
のでしょう?具体性に欠けています。
それに本来は罪を悔いて告白していても、
自分が邪悪な人間扱いされれば誰だって罪にいたった状況の
言い訳の一つや二つは言うでしょう。
普通は弁護士が冷静に弁護してくれるはずなのに、弁護人の
出席が許されないのだから、自分で弁護するしかないでしょう。
神の群れを牧する 93頁
その人は間違いの責任を受け入れていますか?
それとも自分の悪の道を
小さく評価したり、正当化したりしていますか?
恥ずかしい思いをさせ、言い訳の言葉を引き出して、そして裁く。
「裁く」ことを神にゆだねるのってそんなに難しいことなのでしょうか。
これはハルマゲドンが思ったほど早くこなくて
サディスティックな感情の行き場がなくなった結果
生まれたシステムなのでしょうか。
根本的に何かが間違っているように思えます。