聖書の中で「むち棒」を人間に対して用いることを教えている部分、90%以上は「箴言」に書かれています。ここでは勝手に「箴言の呪縛」と名付けました。
世界の変化
*** 目85 10/8 30‐31ページ 世界展望 ***
育児専門家のほとんどは子供のおしりをたたくのはよくないと言うが,ニューハンプシャー大学の家族研究所の調査によると,アメリカの親の88%は子供のおしりをたたく。
アメリカの現状を伝えたこの記事は 1985年のものです。
それに対してヨーロッパでは
スウェーデン(1979年) =>体罰禁止
ドイツ(1980年)=>体罰禁止
フィンランド (1984) =>体罰禁止
デンマーク (1986) =>体罰禁止
ノルウェイ (1987) =>体罰禁止
オーストリア (1989) =>体罰禁止
1980年代には人権意識が強いヨーロッパの北側では体罰禁止が法制化されます。
結果として1980年代にはヨーロッパに住む多くの人が体罰はよくないという意識を持ちます。
アメリカと北ヨーロッパでなぜこのような差が出たのでしょうか?
それはずばり、キリスト教保守派の比率の違いです。
キリスト教保守派とは、聖書は絶対と考えるクリスチャンです。
つまり箴言にムチ打ちが必要と書かれているのだから必要、と結論する人たちです。
ちなみに1980年代以降のものみの塔出版物に出てくる「体罰が必要である」とする権威者は保守的キリスト教福音派か長老派の牧師だったりします。そしてとても古い本を参照している場合もあります。
現代では体罰が必要であると考える専門家は宗教的な動機を持っている人しか残らなくなってしまったわけです。
日本の変化
ここから日本の状況に話を移します。
日本で体罰が暴力や虐待と関連付けられるのに
「戸塚ヨットスクール事件」が大きな役割を果たしたと思います。
この事件がきっかけで1980年代に体罰は暴力なのではないか、子供を更生させるという結果だけを見て手段を正当化できるのか、という論議が活発になります。
それでもJWの中では1980年代も過激な懲らしめのムチは続いていたと思います。
箴言の呪縛は1990年代に地域差はあれ、かなり解放されたように思います。
ムチは絶対必要→必ずしも必要ない→あまり必要ない
この呪縛から解放するきっかけは、やはり世論が大きいと思います。
それに加えて「むち棒」という言葉が詩編 23:4にも使われていて、それが体罰を意味するわけではないという協会の説明が後押ししたのだと思います。(目92 9/8 26‐27ページ)
あと1990年代のどこかで「王国会館で懲らしめを行うべからず」という通達が日本支部から出たと聞いています。(具体的な年代と手紙の内容は確認できていません)
そして「1997年秋の特別なキャンペーン」というものが日本支部によって企画されました。
この活動の一つに学校を訪問して「子供をのびのび育てる」という記事を載せた雑誌を配布することが含まれていました。
1997年に日本支部がエホバの証人の子育てに関してかなり世論を気にしていたということがわかります。
これは個々のエホバの証人にも影響したと思います。
箴言の呪縛からの解放
ものみの塔協会は体罰に関して世論にかなり近づくことになりましたが、「体罰は必要ない」と言うわけにはいきません。箴言が「むち棒で打つ」ことを語っているのは厳然たる事実なのです。
そこで協会が選んだのは以下のフレーズです。
「懲らしめのむち棒を用いることは, 必ずしも 子どものおしりをたたくという意味ではありません。」
(塔04 7/15 31ページ)
「聖書の見方は道理にかなっているのです。体罰は 必ずしも 最も効果的な教え方とは言えないということが認められています。」
(目92 9/8 26ページ)
やはり箴言を否定するわけにはいきません。
そして体罰から最初に開放されたのは・・・
*** 目04 9/8 24ページ 犬を訓練するには ***
たたく,けるなどの体罰は必要ではありません。前述の訓練士のマルコスは,「鋭い声で『だめ』と言うだけで,犬は自分の行動がよく思われていないことを理解します」と述べ,こう付け加えています。「犬は賢いので,ほめられているのか,叱られているのか,じゅうぶん分かります」。
あれ、犬ですか・・・