メディア人ダリウス | エホバの証人研究(ブログ)

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エホバの証人研究サイトの「歴史4 – 神意による年代調整」という記事を書いていたが、予想以上に時間がかかる作業になってしまった。
内容を少し更新して以下の場所にアップしている。

歴史4 – 神意による年代調整
苦労した点はいろいろある。 例えば C.T.ラッセルが「キュロスの第一年」を西暦前536年と定めていた理由を探してもなかなか見つからない。ラッセルは著作の中で繰り返し「キュロスの第一年は西暦前536年で歴史的に証明されている」と述べている。それにも関わらず根拠が書かれていないのだ。西暦前536年が当時だれもが受け入れる年代であったとは思えない。

結局、ラッセルはネルソン・バーバーという人の年代計算をそのまま取り入れただけという結論しか出ない。


メディア人ダリウスの話

ラッセルの著作を見るかぎり、彼はバビロンの倒壊の日付に注目はしていない。彼にとっては「キュロスの第一年」が重要であった。

しかし、ものみの塔は「バビロン倒壊」と「キュロスの第一年」の年代差を説明する必要がでてくる。
それは粘土板の研究により「バビロン倒壊」の日付がより明確になってきたころだ。

そこで登場するのが「メディア人ダリウス」である。

1943年の「The Truth Shall Make You Free」151頁は次のように述べている。

「バビロンが西暦前538年にメディア人ダリウスと、彼の甥(おい)のペルシャ人キュロスによって征服されてから2年後にキュロスの単独統治の一年目が始まったことは十分確証されている。それは西暦前536年だ。」


翌年の1944年発行の「The Kingdom is at Hand」195頁は次のように述べてる。

「最も正確な歴史によると、メディア人ダリウスと甥のペルシャ人キュロスは西暦前539年にバビロンの首都を共同で制覇した。ダリウスの短い統治の後、キュロスが西暦前537年に統治を始めた。その年がエルサレムの70年の崩壊の終わりを印づける年となった。」

??
「キュロスがメディア人ダリウスの甥?」
「2年後にキュロスの単独統治が始まった?」


厄介なのは、こうした主張がいつも「十分確証されている」とか「最も正確な歴史によると」などの言葉で始まるのに根拠がほとんど語られないことだ。

そしていつの間にか主張が変更される。

キュロスが「メディア人ダリウスの甥」である話はいまは存在しない。
キュロスの単独支配がバビロン倒壊の2年後に始まったという話もトーンダウンする。

そして「ものみの塔2011年10月号」ではメディア人ダリウスの話は完全に消える

理由は明確だ。「要(かなめ)となる年」を説明する上でメディア人ダリウスは邪魔な存在なのだ。

それまでメディア人ダリウスは好都合な人物だった。彼は誰なのかもわからないし、キュロスの前に1年支配したことにしても2年支配したことにしても、一般の歴史に登場しない人物なので反証されることがない。
それでも今回だけは都合の悪い人物になってしまった。
キュロスの支配に関して多くの粘土板が発見され、計算するとメディア人ダリウスの統治する期間はなくなってしまうからだ。「要となる年」を説明するためには出てきてもらっては困る人物になってしまった。


ものみの塔2011年10月
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The Truth Shall Make You Free p151 - 1943年

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The Kingdom is at Hand p195 - 1944年

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The Kingdom is at Hand p175 - 1944年

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