僕には信仰がないけれど、祈りはあります。

闇にさす光に祈ること、さまよう風に誓うこと。そのような、心の内側の行いについて、信徒でなくとも向き合うことができる空間を、安藤忠雄氏の「光の教会」で感じた経験は僕にとっては大きなものでした。

人の住まう街の光が十字架になっている。コンクリート打ちっぱなしの御堂の正面の壁に大きな十字のスリットが空いていて、そこから入ってくる街の光と風と気配が、十字架の役割を担うのです。

そこでは、コンクリートの肌触りや音の反響が、決して冷たくなく、むしろ余計な邪念を洗ってくれるような感じがしたのです。

教会は大阪にあるのですが、東京で行われた氏の展覧会では、実寸の建物が国立新美術館の敷地に建てられ、これがまた感動的でした。

それは展示物として再現されたのだけれど、やはり単にそういうことで収まるわけもなく、それこそ司祭も信徒もいないのに深く祈ることができるトポスが成されていて、そこでまた鮮やかな経験を持つことが出来たのでした。東京の光の教会)

この「光の教会」ともに氏の代表作のひとつとして有名だった『風の教会』が再生されるプロジェクトを伝えたショートフィルムを見ました。※監督をされていた小田香さんはタル・ベーラに学ばれた方だそうで新宿で上映会がありました。

「風の教会」は、六甲オリエンタルホテルの施設として建てられ、同ホテルの閉館とともに使用されなくなり廃墟化していたそうです。

このフィルムに描かれているのは、この廃墟化していた教会に新しい息吹が宿って再オープンしてゆく経過なのですが、僕は、それとは別のことを感じながら見つめていました。

僕は、奈良の古い街で生まれ育ったせいか、廃墟や、壊れかかったものや、古い建築物に言い知れぬ魅力を感じます。

人間がつくった建物でも、それが何かしらの事情で使われなくなったりして、人の手から離れると、思いがけない風化が進み始めることがあります。

風化したり、植物が侵入したり、朽ちていったりするとき、なぜかそこに人ではない別の魂が取り憑いたりし始めるようにも感じます。特別な物音が聴こえ始めるようにも感じます。

時間を吸い込んで、壁や柱や床が、本来に与えられた役割と異なる思いがけない個性を獲得してゆくというのか、廃墟ならではの感触や気配を発してじっと在り続けてゆく、そのような場所に、僕はなんだか魅力を感じるのです。

そんな僕にとって、この映画は、静々としているのですが、すごく無数の声に満ちたものに感じられる味わい深いものでもあるのでした。

ただじっと見つめているだけの時間や、じっと聴いている楽しみを、許してくれる映画とも思えました。

景色のような、いいえ、建築のような映画とでも言えばいいのでしょうか、、、。

12分ほどなのですが、たっぷりとした時を感じました。

 

 

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この物質が分解できるとしても、もはやこれ以上分解できないというような最終要素は、あるのでしょうか。この私ではどうか。壁を眺めているこの私を分解したとして、私なるものの最終要素は、どこかにあるのでしょうか。逆さまにするなら、私なるものに、発生点なるものはあるのでしょうか、それとも無いのでしょうか。もしそれが無いならば現在なるものは存在できるのでしょうか。いまここにいる壁を眺めているこの私と壁は、、、。そんなことから、さまざまな問いかけが突如広がっていきます。しかしなぜいまさら、こんな雨のなかでなのかしら。練習の帰路、この壁面の前を通ることが多いのだけど、きょうはそんなことを感じます。壁に霧雨が染み込んでゆくようです。さて。

 

 

 

 

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一気に空気が澄みはじめた。秋になった。きのう10月4日に幕切れとなるはずだった秋公演がなくなり、まる一年、舞台活動を停止したことになる。

秋公演は緩和政策のなか葛藤しつつの中止となったが、早春から今までの間に全くの新作の構想が熱をおびて、数日前に初の通しリハーサルを試みた。

稽古の内容も熱量も特異になってきているのか。開催出来ない舞台の準備と始末を通じて、考えさせられることが膨大に出ている。この身体の緊張感は、かつて経験したことがない。たぶん僕にはいま、根っこから踊りを見直す時が来ているのだと思う。

この夏は日本中で、いや、世界中で、沢山の祭りや踊りが中止になった。僕の住む東京でも毎年あちこちで小さな盆踊りがあったが、今年は見事にゼロだった。レッスンやリハーサルの帰り道に太鼓の音がきこえて、もうひと踊りしたり、ただふらりと立ち寄るだけでも、あるいはそんな場所で普段は会釈するだけの近所の人とたまたま会ってちょっとだけ言葉を交わしたりするのも、じつはとても大きな役割があったことに、いまさら気付く。場があること、サイクルがあること、そこには大切なものがあるにちがいないと思えてしかたがない。

もう長くなったこの状況ゆえか、メリハリのない日常性が季節をこえて街を覆い尽くしてゆく感じには、なんだか危うい予感さえする。これから、気持ちを解放する場や時間が、日増しに大切になるのではと思う。

初夏の緊急事態明けからクラスの開講日を少し増やしたが、クラスのたびに、踊ることそのものの大切さが身に染みるようになった。お祭りの踊りとは気分がちょっと違うかもしれないけれど、そこに行けば思い思いに踊れるような、あるいは踊りの空気感にさわって過ごせるような、時間と場所をコンスタントに用意する、それは一番大切に継続したいと思っている。

踊るには人と人が皮膚感覚で関わるという特徴がある。互いが動きを交わし、向き合うこと。言葉では言い尽くせないことを、出すこと、出そうとすること。踊ること、ダンスすることは、存在することを認め合い受け止め合うことでもあるように思う。

人には、いろんな姿勢があり、いろんな迷いがあり、いろんな佇まいがある。ひとそれぞれ、という言葉があるように、人はそれぞれ色々で、その色々を出し切ってゆくのが踊り。ひととひとが、それぞれの色々を呑み込み合って、共に揺すり合うような時間が、踊りの時間なのではと僕は思っている。

踊りの時間が欠けてゆくと、互いを受け容れる余裕がなくなったり、互いの異なる有様をこばむような社会になっていったりするのではないかと、漠たる想像をしたとき、僕は心底から戦慄する。

世の中に不安がひろがってゆくとき、踊りだけではなく、いちばん失ってはいけないものが人と人の皮膚感覚や熱の関わり交わりだし、それを育む場だけは中断してはならないと思う。それぞれが自分を保つためにも、ひとりひとりが生きた思考をするためにも、流されないためにも、、、。

いま僕らは不安を共有しているのは確かだ。多くが同じことで苦しんでいるのも確かだ。こういう状況にこそ、身体まるごとで何かを、と思う。

 

 

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青空を壊しながら、

大地を失いながら、

生きている。

地の果てで、

ひとがひとり、

ひとつの、からだに、耳を澄ましている。

(櫻井郁也『LAND'S END』振付記録より)

 

月光ソナタは僕にとっては作品でもレッスンでも何度も取組んできた曲の一つで、おそらくこれからも長く付き合ってゆく音楽ですが、なかでも記憶に強く残っているのは、2008年に上演した『LAND'S END』という独舞の稽古と本番での経験でした。

この作品では、月光ソナタに使用されている音列やリズムを基調として非常に長い音楽を制作しました。また、原曲の楽譜を解体して演奏したものがダンスの進行に絡み合ったりということも行いました。とても膨大な作業量だったこともあり、何回か挫折しそうにもなったのですが、この時の心身両面での試行錯誤を通じて、体と自我の関係が大きく揺らいだように感じました。上のテキストと写真はそのときのものです。

どうしてこのように深い深い、そして哲学的な問いかけに満ちた音楽を、ベートーヴェンは生み出すことが出来たのだろうかと、この曲に身を浸すたびに圧倒されます。

ところで、この、ベートーヴェンの月光ソナタをモチーフに、10/1(木)のクラス「踊り入門」は踊りました。すでに何回もこのクラスでは聴いてきたのですが、この日は少し特別な雰囲気が漂っている感もありました。あの音のたえまない波のなかで展開した踊りの時間は、とても率直で、静かな熱に満ちているようで、心の眼が覚めるようでした。

10/2(金)のクラスは「ダンス・舞踏クラス」で、こちらは全く別の音楽で踊ったのですが、音楽との関係のみならず、踊る人と人のあいだに生まれてゆく様々な関係が鮮やかで、アグレッシブでもあり、すごく思いが溢れてくるのを感じました。ほとんど時間いっぱいを踊りまくったので、お話は来週にすることになりましたが、やはりダンスの原点を感じました。

ダンスというのは「いっしょに」ということに尽きるのだけれど、それは熱と熱がぶつかり合ったり交じわったりし続けることでもあると思います。そして「人格と人格の関係」とはまったく異なる「踊りの関係」つまり「エネルギーとエネルギーの関係」になってゆこうとするときにこそ、ダンスならではの場が発生して、身体が冴えてゆくのではないかと、あらためて思います。

 

※今日と明日は、本来なら秋のソロ公演の本番日でしたが、またコロナのために中止になりました。別の発表方法ではなく、本来の生身の場所として次の公演のチャンスを探っていきたく思います。みなさま、どうぞ、お見守りいただけますよう、お願い申し上げます。

 

 

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夜の色が、深くなった気がする。どこまでも漆黒に近づいてゆくような、そして、その深さを裂くように月や星の光が鋭くなるような。

 

 

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一輪だけ、通りがかった公園の片隅に、彼岸花が咲いていました。

 

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「なまあたたかい暴風が吹きはじめていた。

 雨は時たま、わずかにふるだけだったが、

 空気はしめって、

 よどんで、

 腐敗物のにおいにみちて、、、。」

 

という、トーマス・マンが書いた言葉を思い出すことがこのごろ多い。コレラのパンデミックを背景にした小説『ベニスに死す』のなかの一行。もちろん、いまコロナ禍がいいかげんにしてほしいと思うほどだらだらと長引いているこの先の見えなさが重なっているのかもしれないけど、、、。

 

なまあたたかい暴風、、、。

 

どことなくそれは現代の僕らの場所に吹く風のことみたいに、思えてくる。

 

風の温度に、風の湿度に、

言うに言えぬ言葉や、眼に見えないまま私達をかこむ現在の檻が、

溶け込んでいるのかな。

風は身体にさわる、さわることで何かを伝えようとする。

風は身体を包み込む、包み込んで何かを染み込ませようとする。

風とは何かしら。暴れる風とは、、、。

 

ボッカチオの「デカメロン」やデフォーの「疫病流行記(ペストの記憶)」やカミュの「ペスト」などパンデミックを扱った名作文学も示唆的だが、僕らのこの現在の雰囲気のとても深部にどこか重なるものが、マンの文章には強くあるように感じてならない。ゆっくりと崩落してゆく世界、あるいは、、、。

 

同じ小説のなかに、もうひとつ、ずっと気になっている言葉がある。

 

「われわれにはまいあがる力はなくて、

 ふみまよう力だけしかない、、、。」

 

この言葉は希望や励ましなどからは遠いかもしれないが、なぜか強いリアルさ確かさを感じてしまう。

 

「地を踏み、地を迷い、地を探し、地に問う。」

 

というのは上演延期となったままの新作ダンスのメモの一部。

踊るとき、僕は目の前に無限大の迷い道があらわれるような気になることが多い。

 

「とてつもない迷宮が、生きる僕らの前にはひろがっているということが、いま、1年ちかくかけて、日に日にハッキリしてきている感じがして」

 

これもまた同じメモの一部。ここから。

 

 

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上の画像は、東京都写真美術館の森山大道写真展の展示風景。

なんか、うまく書けないけれど、久々に写真を見て、切なく、?なりました。

写真にすることで風景はサイレントになります。あらゆる動きが停まって、沈黙になって、いろんな気持ちが凝縮された停止図になります。

全てがパッと止まることで、音や動きに惑わされて気付かなかったものごとがぐぐっと立ち上がって迫ってくるのでしょうか。

風景が停まる、それは写真を撮っている人の足が停まったということなのだから、なにかハッとする息も写真からコチラに来るのかなあ。

展示されていた写真には新宿の街角や人が写っているものがいっぱい。

僕は新宿からそんなに遠くないところで暮してきたけど、新宿は時の流れとともにどんどん変わってきた感じがあって、いくぶんきれいになってきたし安全にもなり便利にもなった反面、少し淋しくもあったのですが、森山氏の写真に撮られた「新宿」にはなんだか、まだまだ新宿の新宿的な感情が吹いているみたいで、ちょっと泣かされそうになってしまいました。

眼の奥に焼き付きました。忘れそうもありません。

 

PS:同館の別企画で、フラメンンコのロシオ・モリーナのライブ記録の上映会も観たのですが、すごい。かみわざ、そう書くしかない感じでした。舞台は色々な仕掛けや新手の趣向を織り交ぜた演出だったが、彼女のステップひとつで何もかもがパッと祓われ、原始というか本能的な官能があらわになって、そして急激な沈黙と興奮が同時に出現するのです。ダッと床を踏むその一瞬、あれは落雷です。手拍子と踊りだけの簡素なシーンで息を呑んで、呑んだまま、ずうっと見つめ続けていたくなりました。これは、ものすごい努力、超努力の結果にちがいない、そう思いました。踊りなるものに賭ける人生がこの斬新な踊りを生み出しているに違いありません。とにもかくにも、力がそのまま眼に飛び込んできます。

 

 

 

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