美しいものには、芯があります。

良い作品には、しっかりした言葉が宿っています。

石岡瑛子さんの回顧展で、あらためて、そう思いました。

彼女がデザインしたポスターの中にいる女性のまなざしには、媚びがありません。可愛く見せようとするような、姑息さもない。

資生堂の、パルコの、覚えあるポスターがずらり。

街で、本で、テレビで、家で、、、何度も何度も見たはずなのに、初めて見るような新鮮さ、そして説得力を感じます。意見がしっかりあるからです。

やはり素晴らしい。しかし、なぜそれらが素晴らしかったのか、ということについて、イマ改めて展覧会という場で見ると、客観的に考えさせられます。

レニ・リーフェンシュタールの再評価となったヌバ族の写真展、タマラ・ド・レンピッカの画集、角川書店の野性時代。ビスコンティの、そして、コッポラの映画、、、。日本公開されなかった映画『MISHIMA』のセットが再現された部屋は息を呑みました。

持っている本や雑誌が、観た記憶があるステージや映画が、展覧会として展示されている。その場に居ることで、それらの底部に流れていた思想や熱を捉え直す、非常に大切な機会になりました。会場の要所要所に掲示されている石岡さん自身の言葉にも、心をつかまれました。

この人は、世間や人目や時代を気にして自分の個を疑ってしまうような弱さが無い、信頼できる芸術家の一人です。

展示はかなり大規模で、落ち着いて鑑賞するなら、少なくとも2~3時間かかると思います。木場の東京都現代美術館。来年2月までだから、まだしばらくやっています。(link

 

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「命がけで」うんぬんというような言葉を聞くたびに、僕は、ちょっとしたとまどいをおぼえます。言ったことがありません、言えません。

たくさん理由がありますが、そのなかの一つに、三島由紀夫さんの行為についての引っかかりが、あるかもしれません。

僕はまだ小学校前でしたから、事件の記憶は直接にはありませんが「あの日」の様子を祖母から何度も聴いた記憶があります。

どえらいことをしはった、という、祖母の大阪弁の語り口と一緒に、事件は、胸のどこかに引っかかったままになって、深い謎として心の底に沈んでいるのです。

それから、三島由紀夫のことを好んで議論する大人たちや、逆に、忌み嫌い遠ざけようとする大人たちが居た記憶も確かで、それゆえ「ミシマ」を読まないでおくことが出来るわけがなかった、のも確かです。

駆け出しのころ、父を看取ってすぐ上演したダンスに市ヶ谷での演説に関わる部分があり賛否が分かれましたが、三島事件については、まだ思考がまとまりません。どんどん、まとまらなくなっています。年齢を重ねれば重ねるほど、何も言えなくなってきます。

ずっと気になり、いろいろ聞き、読み、考え、しかし、なぜでしょうか、どうしても、僕は、三島由紀夫さんの行為が事件が、わかった気になりません。わかった気になってはいけない気さえ、します。

なぜ、、、。

きょうは11月25日、「あの日」です。

享年45歳。舞踏の黎明に深く関わった人でもあります。

上の写真はウチにある『太陽と鉄』の表紙。その下は中身のラスト近く、イカロスを詠んだ詩の冒頭ページ。

衝撃を、まだ受け続けています。

 

 

 

 

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この数ヶ月、グスタフ・マーラーのいくつかの楽曲を聴きこんでいました。直弟子であったブルノ・ワルターによる録音は非常に古い音源ですが、やはり凄いと思いました。

マーラーは高校生の頃に来日したバーンスタインの演奏会に度肝を抜かれてしばらく聴きまくったのですが、いろいろな出来事のなかで、距離ができていきました。

世界の底から這い出てくる情念をつきつけてくる音の嵐の、あの絡まりついてくるような執拗さを、ある時期の僕は疎ましく思い、遠ざけてしまいました。そして30年ちかくも疎遠になっていました。

再び聴いたのは東日本大震災の直後でした。あの日の東京で極めて少数の人々を前に行われた演奏会の記録映像を観たのです。第5交響曲。断片的だったのですが、心に深く食い込みました。

今年は緊急事態宣言のころから、稽古でいくつかの曲を踊りました。突然の異常事態と不意打ちの空白にとまどっていたときの稽古の選曲に、直感的に出てきたのがマーラーでした。そして、すっかり距離が空いていた彼の音楽との出会い直しは、ほかにも遠ざかっていた様々なものやことに、再び耳や目を澄ますきっかけにもなっていきました。

マーラーの、虚無と闘うかのような過剰な音の波は、いま経験している時代/日々/困惑にも、どこか重なる気がします。

独舞の稽古で踊ったのは、5番の葬送曲、2番の『復活』に含まれる歌曲、そして『大地の歌』。

『復活』は演奏時間が1時間半におよぶシンフォニーですが、深刻で仰々しいほど劇的です。不気味な下降音のしつこい波から始まり、押し寄せてくる「圧」の中から、次第に、悩ましい「歌」が湧き上がってくる。悩ましく絶望的な歌が光を獲得してゆく最終楽章は、音楽による「嗚咽」にさえ思えます。

レッスンでは、5番のアダージェットを紹介し、みんなで踊りました。トーマス・マンの『ベニスに死す』はコレラ禍のヴェネチアを舞台とする小説ですが、これを映画化したルキノ・ビスコンティが非常に印象的に挿入した曲です。

特別な力を感じるのは『大地の歌』です。この音楽のなかで繰り返し歌われる「生ハ暗ク、死モマタ暗イ」(Dunkel ist das Leben, ist der Tod!)という言葉は、まさに現代的な響きで、胸に突き刺さります。

つい数日前に掲載した稽古写真はこれを踊っている一瞬間でした

今、あらためてこの作曲家のいくつかの曲を聴きこみながら、やはり何か異様な重さが吹き込んでくるのを感じています。歌曲にも、室内楽にも、交響曲にも、何かが過剰で、へたをすれば滑稽になってしまうほどに荘厳で、それゆえ、混乱と痛覚に満ちていて、聴きながら、心が深く深く落下するのです。

マーラーの音楽群からは、ごまかしのない心の震えや迷路や絶望感が、洪水のように押し寄せてきます。それゆえに、そこはかとなく恐ろしく、悩ましく、しかし、陶酔的な、危うい美しさが漂うのかもしれません。

 

 

 

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誰もいない劇場にいると、さまざまな想念が駆け巡ります。

扉を閉めて、風や自然光から離れること、、、。

暗箱のような、空っぽの空間に満ちている残響は独特です。

劇場で観たナマの踊りは子どものときから今まで全て覚えている気がします。

ともに観る、という楽しみが踊りの公演にはあります。目の前で踊るのは生身の人で、となりで見つめるのも生身の人で、という、その状態がとても得難い感覚を拡げてくれるのです。

見ているというより、全感覚で感じとっている。いろんな人のいろんな感覚が場内に張り巡らされている中に居るのです。共にある楽しみ、と言えばいいのでしょうか。

磁場に居る、磁場を形成する一人でもある。それから、ダンサーと何かしらを交わしている感じが、やはりあります。ダンサーと目が合うこともあります。立ち会う人の発する全てをダンサーは感じながら踊っています。

そのために劇場は閉じた空間になっています。

樹木や土や水のない、真空の空間で踊る。その意味は現代では巨大だと思います。

劇場で観るナマの踊りは、人間の神経の束とも言えると思います。踊りそのものはもちろん、空間に座った心地や、始まる前の緊張感や、終わったあとの雰囲気まで、すべてが作品体験として心に刻み込まれます。

いま制作している作品は、そういうことも含めて、ダンスそのもの、そしてダンスの場、に対する気持ちが反映したものになる予感があります。

上演は作品の目処と世の状況を測り合って決めます。

今年は地道な作業や実験の時間を久々にとれています。じっくり時間をかけなければ出来ないダンス作品を探っていきたいです。

(Sakurai Ikuya 2020)

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写真は『全体主義の起源』みすず版一巻の表紙ですが、何かが押し寄せて来るような、抗い切れない力が映り込んでいるようで、僕は、すごく怖く感じます。

この大著を書いたハンナ・アーレントについての展覧会が少し前にベルリンで行われたときき、うらやましく思いました。このパンデミック時に彼女に注目する展示は非常に有意義と思いました。

 

政治においては服従と支持は同じ(エルサレムのアイヒマン)

 

人間が生まれてきたのは死ぬためではなく始めるため(人間の条件)

 

いづれも、この人の言葉。やはり重い、最近つとに思います。

彼女の文章は難解と言う人も多いし、実際その1ページを読むだけでもかなりのエネルギーを必要とするのも確かですが、僕はその底に強い心の存在を感じ、妙に気になり、つい次の頁を開いてしまいます。そして、なんとか読もうとかじりつきながら考え、考えながら、思考するという行為それ自体の重大さを思い知らされます。

僕のダンスにとって非常に重要な力を与えてくれたものの一つが《オイリュトミー》というメソッドで、その修行に”Ich denke die rede” (私は言葉を考える)という句に始まる必携のマントラがあり、僕には毎日の稽古やリハーサル前にこれを練習する習慣が今もあるのですが、アーレントの書物を読んでいると時々このマントラとそれに照応する身体運動が浮かんでくるのです。37~8年ほど稽古してきたのですが、このごろは、その奥深さに感動することがたびたびあり、言葉それ自体について問いを持つことや、身体に思考の力を注ぎ込もうとすることは、自由であるためにとても大切なことに思えてなりません。

アーレントの言う「ヴィータ・アクティバ」というのも社会経験とロゴスそのものに対する思考が重なる体験によって導かれる、抗いの基盤とも言えるのではないかと個人的に思うことがあります。

僕の馬鹿げた妄想かもしれないが、上記の著をはじめアーレントのさまざまな著作に書かれた全体主義への危機のいくつかを、今年のコロナ状態のなかで思い出してしまうことがたびたびあり、それも手伝って再読をしています。

スペイン風邪パンデミックから1930年代あたりまでの欧州の出来事がもたらした世界の変化と、僕ら自身の現在を重ねずにはいられない気持ちもあります。

今年の状況のなかで垣間見られた僕らの底はかとない「きまじめさ」が、戦後70数年をかけて訣別したはずの「かつて」を再び招き寄せやしないかと愚想することが、あるいは、底はかとない怯えを感じることが、今年このコロナ禍中での「人間かんけい」とか「空気」のなかで何度となくありました。

現在この世界のなかに漂い充満している空気感が、彼女のいくつかの本のなかに書かれている現象に、やがて重なっていきそうな予感が、ふと、してしまうのは妄想、あるいは考え過ぎでしょうか。コロナパンデミックが通り過ぎてゆくのと入れ替わりに、僕らの脳内が変化し、何か恐ろしい足音が聴こえてきたりしないだろうかと、心配になります。その心配が馬鹿げていることを祈ります。

ただいま経験しているこの長い停滞と困惑の時間が、さまざまなことを考えたり振り返ることを可能にする時間でもあることは、とてもリアルです。

いまこの停滞の一日一日一瞬一瞬に何をいかに「思い考え」してゆくか、、、。その堆積によって、身の回りのことや少し先の未来が、いくぶん変わってくるような気がしてなりません。

 

 

 

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ゲゼルマネーの面白さをたまに思ってしまうのですが、お金に寿命が無いのはなぜなのだろう、という疑問は、それを知るまでにも素朴にありました。お金に互換性があるのはなぜだろう、ということも、、、。

もちろん、それぞれ便利この上ないけど、貧富の原因のひとつは、お金が長く保存できて簡単にエクスチェンジ出来るからじゃあないのかしらと思ったり。余っても腐らずにあるから、めちゃくちゃに蓄えたりも出来てしまうのでは、というようなことも。いろいろ。

いまのところ、お金は経年劣化しないことになっていて、制度が変わって使えなくなることはあるけれど、鮮度とは別。古くなって使えなくなったりしない、というのは自然界には無い独特の価値だなぁと、ふと思います。

アタマで考え出されたものはなかなか自然には適応しないのかしらん。

あちこち異なる地域で換算できる、というのも便利だが自然物とは少し異なる。お金には寿命がなくて、お金の価値は多くの地域で換算できる。このシャカイの前提ともいえる事が、たまに、なんとなく気持ちが悪くなってしまうことがあるのはなぜでしょう。

たとえば、放っておくと朽ちて無くなってゆくお金をつくると、どんな暮らしになるのだろうか。お金と別の価値で生活をする地域が、出てきたりは決してしないのだろうか。たとえば稼いだお金は新鮮なうちに使い切る、稼いだお金は稼いだ場所で使う、というような習慣が未来にできれば、未来社会はどんなふうになるのだろうか。など、いろいろ妄想がふくらみます。

奇妙な考えだと思われるかもしれないが、お金が生き死にしないし腐らないというのは自然の法則とずれている気がして、その不自然さが、自然の範囲の差、程々の力の差というやつを崩れさせ、極度な格差や競争を人間のあいだに起こして共存を困難にしてしまっているのではないかと思えるときもある。お金には、必要以上の富や力を制限する役割を与えることもできると思うが、人間はいまのところ、そうはしない。

さまざま、お金についての思い巡りが、自分の中で最近ちょっと出て来ている感があります。

 

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ダンスを踊ったり教えたりという毎日のなかで、「からだ」という言葉をよく使う。

からだ、カラダ、体、躰、體、身体、、、。

それぞれ含みが変わるから、けっこう悩みながら使い分ける。この言葉の使いようによって、話の底が透けて見える気もする。人が見える言葉ともいえるかしら。おもしろい言葉だと思う。

からだ、という言葉を言うとき、この音の並びに不思議を感じることがある。

「か」という音は力づよく何かを発するように感じる。対して「ら」というのは何かひっくりかえるような、あるいは、何かが意表をついて現れるような音のように感じてならない。そして「だ」というのは、何かが砕けて別のものが生まれて来るような、あるいは空にあったものが着地するような感触があるように思う。

「からだ」という言葉には、ちから、とか、あらわれ、とか、うまれ、という現象に連なるいろんなものが渦をなしているような、そんなふうに僕は「からだ」という言葉のことを幻想することがあるのだ。

他者の体を受け止めて、他者に体を受け止められて、体は変化してゆく。

親を看取り、子どもが生まれ、育てながらその体重に耐え難くなり、また新たな子どもが生まれ、、、。たとえばそのような、体の受け止めの連続が生活を次第に変化させ、感情を深くしてゆく。

自分の体を感じることと、触れ合う人の体や死にゆく人の体や生まれ来る人の体の重さを感じる、ということが、どこか重なってならない。

からだというのは、実は単独のものではなくて、さまざまなものと連なっているものなのではないかと思う。

踊りが体を元気にし、生活の底に力を与えるのは、それが音や空間や時間や魂というものと身体を結びつけ、日常のあれこれや社会の立場によって断ち切られて単独になってしまいがちな現代の体に「連なり」を呼び戻そうとするからかもしれないと思う。

 

 

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