ミャンマーの外科医・作家でいられる、マ・ティーダさんが国際交流基金の招聘で来日された2018年の記録がテレビで再放送され、見て、感銘を受けました。

彼女はミャンマーの民主主義のために闘ってきた方ですが、著書を読みたいと思っても日本語訳のものが見つからないでいたから、直接のインタビューを含むこの記録は、非常にありがたかったのです。

「ビルマ語にはまだ民主主義の訳語がない。まだ現実に向き合う準備ができてない、、、」「彼らはいつも 自分たち民衆の力を過小評価し いつも救世主を求め、、、」という言葉の数々はショッキングでしたが、その言葉の奥には、民主主義社会であるはずの国に生まれ育ち自由であり続けているはずの僕ら日本人にも当てはまるものがあるかもしれないと、思いました。自由と自立と他者への寛容さについても、思い直させられました。

彼女は、刑務所で監禁されているときに毎日20時間近くの瞑想を実践したそうで、ある日、看守長から、君は自由だなあと言われたのだそうです。そして、看守の人には身体や法的な自由があっても、思想や日々の活動では自由がない、囚人である私は体も法的にも自由はないが、自分の考えを表す自由な意思は持ち続けている、と認識することが出来たというのです。すごいことだと思いました。

自由は心にこそある、そのような考えに立ったとき、果たして、私は自由であり得ているだろうか、何かに心を囚われていたり、自らの頑なさやこだわりによって、せっかくの心を不自由にしてはいないだろうか、そのようなことを思わずにいられませんでした。

もしかすると、彼女によって話されている様々な事柄は、僕が個人的に考え試みているダンスの基本作業にも、(心の動きと体の動きの関わりからは、自由や自我のことが、くっきりと現れるのですが、、、)どこか関わるようなことなのではないかと、強く思いました。

「私は自立していたい、自立という言葉は素敵です、人生は記憶の瞬間の集積です、今を生きることが私の指標です、、、」と語る彼女はとても魅力的でした。

 

 

 

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《踊り入門》というタイトルで舞踏クラスを担当している「ほびっと村学校」のために書いた文章があり、ご紹介させていただきます。

 成果主義にならない、結果を急がない、味わう稽古というか、とにかく「自分なるもの」と思い切り「ゆっくり・緩く・のんびり・じっくり」向き合う、ある意味で実験的なダンスのレッスンを、ここで続けていて、心に残る瞬間に何度も出会ってきました。

 

 

photo=ほびっと村学校(この奥のドアを開けると畳敷きのスタジオになっています)

 

ほびっと村学校と私 第1回『息をきく場所』  

書き手:櫻井郁也(ダンサー、舞踏クラス講師)

  僕にとってここは息をきく場所です。踊りのクラスを開いているせいか、ここに来ると、いろんな呼吸がきこえてくるような感じがしてなりません。きっと、いろんな人の息が染み込んでいるんだと思います。ここには面白い歴史があり、色んな人の気配や温度が残っています。落ち着く場所です。

 自由学校とでも言えばいいのでしょうか、ちょっと寺子屋みたいかも。あるいは道場みたいな、寄り合い所みたいな、いや、そのどれでもなく、そのどれもでもあるのかしらん。ふだんは何かしらの講座やレッスンが行われていますが、トークやミニコンサートにも、プライベートな話し合いなどにも、いいかもしれません。畳のお部屋の白い天井には月や星が浮彫りになっていて廊下の窓は星のカタチ。数人でのんびりするのも良し、みんなで熱気(あ、いまはちょっとがまん?)も良し、という空間です。

 僕がここで舞踏クラス〈踊り入門〉を始めたのは2007年春、前年にポルトガルでおこなったダンス公演とワークショップの指導経験が原点です。遠い国で、人生の一日一日を心から楽しもうとしている人々と出会い、こんなふうに心を開いておおらかに踊り楽しみ合う場を、舞踏が生まれたこの東京にも開きたいなあ、と思ったとき、この「ほびっと村」のお部屋がふとアタマに浮かんだのです。

 「ほびっと村」とは3回出会いました。上京スグ、初めての子育て、そして、上記のクラス開講、いずれも僕には変化のときでした。

 初めて訪れたときは、このビルの階段が気に入りました。1階から3階までの手すりに隙間なく、びっしりと珍しいチラシが吊り下げられていました。あらゆる種類のワークショップの、図書の、映画の、舞台やライブのチラシ。それを手に取って眺めているだけで、ちょっと世界が広がってくるような感覚がしました。

 ネットがまだ無くて「街」が情報そのものだった頃、たしか1983年の春でした。寺山修司が亡くなり、土方巽が最後の舞踏シリーズを始め、新宿では唐十郎の赤テントがまだまだ評判で、芝居も踊りも言論も、いいえ、世の中全体が、良くも悪しくも大きな転換期を迎えていました。

 2回目の出会いは初の子育てのとき。阪神大震災のあと地下鉄サリン事件が起き、世の中がぐらつき始めていたなかで、安全な食べ物をさがし、信頼できる子育てや生活の智慧をさがしたのです。

 そして3回目の出会いがクラス開講です。僕はすでに舞台活動をしながらあちこちでレッスンを開いていましたが、上述の海外経験を通じて、よりユルくて、より振れ巾のある、「教室」というより「踊り場」を開きたくて、ここを訪ねました。

 明確でないもの、あいまいなもの、定まっていないもの、ぼんやりしたもの、めちゃくちゃなもの、だけど、なんだか気になるもの、そのような、ある種のカオスに光を当てることができる場所。泣く人も笑う人も、いっしょくたに居ることを受け止めてくれる空間。いつでもフラリと踊りに来れる場所。

 そんなイメージを勝手に思いえがいて、それでクラスを開かせていただき今に至るのですが、世界はとてつもなく変化し始め、あの東日本大震災をへて、いまこのコロナ禍に直面し、もう大変なことになっております。

 危機をいかに乗り切るか、いかに復活してゆくか、いかに人間らしく手をつなぎ直すことができるか、というこの時期に、あれこれアタマを悩ませながら、この、まとまらぬ文章を書いております。書きながら、思います。ほびっと村学校、この場所で試行錯誤されてきた底知れない学びや遊びや行為や対話について、それらを通じてこの場所に息づいてきた無限無数の思いや言葉について、、、。

 アタラシイ◯◯、とかいう言葉がちまたを跋扈して久しいけれど、世の中はこれからどうなるのかなぁと、すこし不安でもあります。「ほびっと村」も「ほびっと村学校」も、今はとても大変なのですが、これからは、こういう自由のための自由な場所が、本当に必要な時期が来るように思えてなりません。

 コロナがやわらぎ、本当に色んな人が、一人また一人と集まって、真剣に世の中や人間の未来を探して話し合ったり、楽しく学びを広げていくことができる日に向けて、がんばってこの場をつないでいかなければと、とてもとても思います。ぜひぜひ、遊びに学びに、おいでください!! (ほびっと村学校公式HPより転載)

 

 

 

 

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新しい社会について真剣に考える時期が突然に来た、そう思えてならない。

地球規模で、だれもが同じことに困り、同じことを解決しようとしている。人と人は、いかに助け合うことが出来るか。というミッションを世界中が共有してゆくことになると思う。

危機の時代には友愛精神が試されるにちがいない。そして、おなじくらいに、危機の時代は全体主義を生みやすい。

ひじょうにびみょうな状況を、僕らは漂っているのかもしれない。

ウイルス状況のなかで、国民の声を、世界の声を、人間の声を、政治家はどのような思いで聴いているのだろうか。(2020.4/12)

 

上は、ちょうど一年前の4月に(最初に緊急事態が発出された頃に)書いた記事の一部です。

そのままの思いが延々と続いている今なのですが、ちょうど同じ頃に公表された、哲学のマルクス・ガブリエルの小論文にもまた、気がかりな提示があり、いまだ、引っかかっています。

それは、ごく短い文章なのですが、気候変動のことに言及しながら、私たちの時代に対する批評とコロナ収束後の私たちの世界構築へのヒントを、示そうとしていたのではないか、とも思えるのです。

例えば、このような一言があります。

 

人間の自己絶滅はコロナによって、わずかのあいだ食い止められている。コロナ以前の世界秩序は、普通ではなく、致死的なものであった。(引用元 LINK

 

かなり挑発的な言葉の使い方ですが、僕は不自然を感じません。コロナによる困窮も混迷も、本当に、こりごりですが、前のままに戻ってゆくべきかどうか、ということについては、思いあぐねる点がとても多いのです。

この一年のなかで、途方にくれつつ、この東京で虹を見たり流星を見たり、庭に蜻蛉や蛙さえ見た経験もあり、つまり、僕らが、人が、活動を少し減少すると自然の生態系はもとへ蠢き始めるのかしら、と思えるような風景が、やはりいくつかあったし、コロナが無ければ社会がおおむね良かったかというと、それはそれで擬問はある。さらに、危機回避を共有せざるを得ない社会のなかで、同調圧力の発生などを含め、全体主義的な雰囲気をいかに招き寄せないようにするかという点に関しても歴史から学ぶべきことが多く、いま、なかなか複雑な思いをしてしまうのも確かなのです。

上掲の一文の中で、自己絶滅、という言葉が強烈ですが、あながち否定はできないなと思いつつ、この若い哲学者の一言を、時々、読み返します。

本当はどんな世界が幸せなのか。どんな暮らし方が、人間らしいのか。

コロナ収束のその時までに、やはり考えなければ、この今の苦しさは無駄になるかもしれない。

新しい社会について真剣に考える時期の、ただなかにある、のかもしれないと、いま、いまの今、思います。

 

 

 

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かなり前になりますが、ロバート・ウィルソン演出の『メサイア(モーツァルト編曲版)』を映像で見た、その印象が、なかなか消えません。

ウィルソン独特の美術とドラマ構築によって、ヘンデルの荘重な宗教音楽が全く新しい次元を獲得し、一見すると非日常的な様式美さえ漂わせるのに、いつしか人間的な喜怒哀楽に落とし込まれ、リアルな出来事のように迫ってくる、それは魔術的な感じなのでした。そして、モーツァルトの編曲により、楽曲がきらきらとした光を帯びているのが、とてもよくわかりました。

演劇やダンスの挿入、重々しい存在感が一種のオペラのように流動し、人物の内面性がくっきりと感じられるように演出されている、その鮮やかさに目が覚めました。

演出という作業によって、この音楽から、神秘的なものが軽やかさとリズムに還元されるのは、実に爽快でした。

聖書、象徴、音楽、身体。それらが独特のスピード感で解体されては消えてゆく。歌手、ダンサー、コーラス、オーケストラ、それらすべてが精密で正確で、舞台という構造物とパフォーマンスという解体行為を共存させ、音そのものの生命をあらわにしてゆく。

いかにも荘厳な聖書劇の音楽なのに、ウィルソンの演出によって、美しく楽しげで、チャーミングなものが、次々に溢れ出てくるのです。

僕は録画で見ただけなのだから、本当のすべてが見えてるはずがありませんから、ナマの本番は、もっともっと、いろんなものに溢れているに違いない、僕は想像しているだけなのだ、そんな思いもありました。

ロバート・ウィルソンが演出する舞台をナマで観たのは『ヴォイツェック』が最後なのだけれど、そのときの驚異的な体験は脳みそに雷を注射されたみたいでした。

ウィルソンの舞台特有の造形感覚、人工的な時空、陶酔、グロテスクなまでの冷却感、、、。

それらが、人間の人間たる匂いをまざまざと感じさせるのだから、すごいことです。

新しいメサイア、ほんとうは劇場に行って感じたかったです。

 

 

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終わらないかもしれない、というような感じの時間が、映画にもやはりあるのかなあと思ったのは、昨年末、テレンス・マリック監督の『Song to song』を観たあとのことでした。

初めて観た『シン・レッドライン』でこの人の映画を好きになり、ほとんど観てきましたが、この『Song to song』は、僕にとって最も奇跡的な映画と思えた『ライフ・オブ・ツリー』に並んで位置するような作品と感じました。

この監督の映画は「わかりにくい」と言われることが多いみたいですが、それは、もしかすると映画というものに期待される時間とは異なる時間が、この監督の映画には流れているからかもしれないと、僕は思います。そして、この時間感覚が、好きです。

映画には時間がともないます。ダンスにも、演劇にも、音楽にも、それぞれ時間がともない、その時間にどんな個性が宿っているか、僕はとても楽しみにしています。

時間には、非常に多様性があると思うのですが、とりわけ映画においては、なぜか、多くの場合それは結末に向かって速度を増していきます。そして、結末なる時点には、カタルシスや切断や問いかけが周到に用意されていることが多々あり、まるで観客の期待や満足に応えようとするように、終わって、いきます。

しかし、テレンス・マリックの映画には、そのような時間とはどこか異なった、独特の時間の流れや速度があるように思えてなりません。中断したり反復したりするドラマは、浅い睡眠のなかで見る夢のような断片的で儚い時間のようでもあり、デジャヴのようでもあり、ふとした錯覚のようでもあり、いったい、どこに向かってゆくのか、いったい、どのように終わりを置くのか、曖昧です。

見えるものが断片的であったり、断片的ゆえに意味が不明瞭であったり、ストーリーが把握しづらい、ということが、僕には、かえって、非常に現実に近いものを体験しているように感じるのです。

現実の時間というのは、必ずしも合理的ではなく、実際、おそらく僕が垣間見ることができる世界は、ごく断片的なものだけなのではないかと思います。

終わらないかもしれない、ということは、いつ突然に終わるかわからない、ということでもあり、それも現実と重なります。

僕は自分の人生を把握して生きているわけではないし、予測することも困難で、それゆえ、いまこの淡々と通りすぎてゆく瞬間瞬間が愛おしく思えるのですが、その感覚に、この人の映画は、ちょっと、触れるのです。

 

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ずいぶん前のことなのですが、、、。

仲間が絶滅したために自分一人にしか通じなくなった言葉を話し続けている人のドキュメント映像を見たことがあり、脳裏に焼き付いてしまいました。

何度も、無性に、思い出します。

 

その人は、誰に対するでもなく一日中話し続けているのです。

南米のアマゾン。

男性で年齢不詳というが、50代くらいに見えた。本当はもっと年寄りなのかもしれない、わからない。

その人以外には、もう地上の誰も、その言葉を話さないのだが、その人は、たった独りで話し続けるのです。朝から夜中まで、一日中。

そして、周囲に居る人は、世界的な言語学者も含め、その人の言葉を解読しようと懸命に努力し続けるのに、どうにもワカラナイようなのです。

そして、その人が死んだら、その言葉も無くなる、という、、、。

 

ある言葉を話す最後の一人になること。

自分以外の誰にも通じない言葉を発しつづけること。

 

これは、ものすごいことだと、なにかが突き刺さったような心持ちになりました。

これは、人間の根っこに関わることなのかもしれない。そう思わずにいられなかったのです。

 

アマゾンでの出来事を伝えるドキュメンタリーだったのですが、なぜかしら、とても身近なことのように感じてしまいました。

じっと見ながら、言葉というものの本性はいったい何なのだろう、と考えさせられました。

いまだに引っかかりが、残ったままです。

 

 

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咲き始めた桜花を見て、思い出します。

感じられないものほど怖いものは無い、

ということを初めて思い知らされつつ見た、

10年前の桜花のことを。

 

感じられないもの、とは直接にはもちろん放射能のことですが、

そこから、いろいろなものごとに広がらぬわけもなく、、、。

 

震災時の原発事故のあと、寒さがやわらぎ花が咲き始め、

それと同時に放射能に対する意識が張り詰めていった記憶があります。

 

そして、なぜだったのだろう、

咲き始めた花の色が、かつてなく冴えているように見えた記憶が、

強く、あります。

あれは、あの奇妙にさえ感じた美しさは、なんだったのだろう、

と、今も思います。

 

〇〇ベクレル、シーベルト、、、使い慣れない単位とともに、「数値」が毎日知らされる。

数値でしか認識できない、知覚することさえ叶わない、そのような毒が天から降っていること。

実体として体内に入ってきている毒があるとしても「感じる」ことができない現実。

そのようななかで、鮮やかに色を放とうとする花々を見ながら、感情が昂ってゆくと同時に、

感じる事ができないものは、自分の頭で考え、想像力で向き合ってゆくしかない、という、

そのような、これまでになかった感覚が急速にリアルになりました。

 

放射能のことは、同時に、「感じることができないもの」の存在を意識するようになったきっかけになり、想像する力の重要さを、生活の中で、具体的に、思い知らされた時でもありました。

しかし、その恐ろしさは、原子爆弾の投下以来、何度も繰り返し訪れていたものなのに、頭で分かっているはずなのに、肌では肚では何ひとつ分かっていなかった。いまここにある恐ろしさは、僕ら自身の内にある認識や言論や行動の問題と深く根ざしてるものであること、この社会と人間の危うさにまさに自身が直面しているということ、なのだ。ということ、を、この出来事を通じて、突然に思い知らされたのでした。

それは、僕にとって、僕のダンスにとって、「重い」という他にない圧でした。

10年を経て、かつ、コロナ禍の只中にありながら、あらためて思い返します。

そういえば、このコロナが始まった頃も桜花がほとばしり、そこに、不意に、春の雪が降り積もって、

かつてない美しさだったのですが、、、。

 

 

 

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