先日の記事の追伸だけれど、第18回ショパンコンクールの2位に反田恭平さんが、4位に小林愛美さんが選出された。すごい。今年のなかで飛び抜けて素晴らしい出来事だと思います。

お二人の演奏に、また、その場での立ち居振る舞いの様子に、この期間を通じてすごく心が動かされました。

コンクールの生配信を連日観て、時差のためすっかり宵っ張りになってしまった。次は2025年まで無いと思うと寂しい気もするが、その分、やはりこれほど沢山の人のショパン演奏を連続して生中継で聴くなんてことはなかなか出来ないのだから、非常に贅沢な期間でした。

そのなかで、日本人だからという理由ではなくて、こんな演奏があるのか、こんなふうに音楽は生まれ変わってゆくのか、という爽やかな驚きという共通点で、上記のお二人の演奏の展開を、楽しみに追っていたのです。

なかでもファイナルは特別だった。曲目そのものがコンチェルトに絞られていて、しかもショパンは2曲しか書いていないのだから、物凄い緊張感の中で、次々にどちらかの曲が演奏され続ける。ちょっと特殊な鑑賞体験だけれど、今年は、演奏というものの面白さを、これでもかというほど味わうことができました。

反田さんの演奏は、青空のような突き抜け方で、猛烈なエネルギーを感じた。あっぱれと思った。小林さんの演奏は、一瞬びっくりするほど変化に富み、抑えがたい感情の塊りが押し寄せてきて、衝撃を受けた。また、スペインのマルティン・ガルシア・ガルシアさん(3位)の明るく力強い演奏からは、音楽の力に対する畏敬が現れているというのだろうか、すごく敬虔な渾身を感じて、心を洗われた。そのような経緯がありました。

とても昔に、ただ一人の人間が書き残した音楽が、あらゆる工夫と努力で生まれ変わり続け、そのことが人間の心を新しくしてゆく。一生懸命に行為するということの意義を芸術は教えてくれる。そのようにも感じました。

コンクールなのだけれど、これは、音楽が時代を越えて受け渡され同時に新しく生まれ変わってゆく瞬間に立ち会っているのではないか、というように感じました。ピアノ演奏という行為を通じて、呼吸と鼓動とが満ち溢れ、祝祭的な感動がある週間だと思えました。一生のうちで一回でもワルシャワの現場で聴いてみたいと、かなり思うのですが、、、。

 

 

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夏に上演した『血の言葉(Ur-Speak)』のなかにショパンの第2ソナタを踊るシーンがあった。振付も実演も非常に苦労した難しいシーンだった。

 

18年前にアンサンブル作品で同じ曲をダンスにして以来、ソロでの踊り方がないものかと温めていたが、今回のソロ作品ではより難しく音の深さの果てしなさを感じた。

 

演奏の難易度も高い曲だが、舞踊化するとなると、肉体を音楽に溶かし込んでゆくことにかなりの時間と労力が必要だった。ショパンを踊れるよう身体を改造するのは、やはりハードルが高いが作業を挫けなかったのはその音楽の霊性ゆえだと思う。

 

フレデリック・ショパンという作曲家は、僕のダンスにかなり重大な影響を与えた一人で、公演でも稽古でもクラスレッスンでも数えられないほどの回数を関わってきたが、今回の作品で、あらためて音楽センスと身体センスは不可分であるということを思い知る機会を得た。

 

きのう10/17はショパンの命日で、今日は(日本時間だと夜中の日変わり頃か)いよいよショパコンのファイナルが始まるから、ちょっと、ソワソワしてしまう。

 

ショパンコンクールは5年に一回の大コンクールだが、この第18回はコロナのせいで延期されていたこともあり、どうにも気になってインターネットでの生配信を視聴し続けてきた。何人も何人も、次々に展開される熱演の数々で、浴びるようにショパンを聴き倒すことになる。様々な国から様々なハードルを越えてきた人ばかり、聴きごたえはハンパではない。

 

驚き、感心し、興奮し、胸打たれ、ということが延々と続く中から、心地よい疲労に襲われるのだけど、そのなかで、やはりショパンがこの世に生み出した音楽の切実さと、その根底に沸々とする「念」を、あらためて発見した感じがとてもある。

 

音を学び覚え練習して身につけ、何度も何度も演奏する、という行為が、人間の心を探す行為に重なる。これはダンスを踊ることにも共通する。

 

今回はアルゲリッチとフレイレが審査員を降板した代わりにブラジル出身のアルトゥール・モレイラ・リマが審査員に加わったことも特徴と聞くが、その12名のファイナリストに、日本の反田恭平さんと小林愛実さんが入ったのは凄いことだと思う。

 

3次審査での小林さんの演奏では拍手が長く鳴り止まなかったが、あの気迫と叙情には非常に人間的なものを感じて胸が熱くなった。反田さんの演奏には相当な説得力を感じたばかりでなく、その響きからは、まさに新しい風を感じた。

 

「唯一人の作曲家」をめぐって世界中から若い音楽家が集い切磋琢磨し演奏を競う。それは、音楽を通じて「一人の人間」をどれだけ深く掘り下げて理解し、人間と人間との理解力を追求してゆくかということだと思う。このコンクールが存在して長く継続されている意義は計り知れない。

 

どのような展開になるのか、興奮して落ち着かない。

 

 

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舞踊修行の途上で、美学者の高橋巌氏から受けた指導は僕にとって非常に大きなものですが、上の写真は氏の著作の中でも特に心動かされたひとつで、デザインは横尾忠則さんです。

内容とデザインが互いに強く働きあって、この一冊の本の存在は、長年にわたって僕に特殊な光を投げ続けています。

書物装丁に限らず、舞台公演の宣伝デザインなども、受け手にとって強い影響を与え、内容と絡まってイマジネーションを高めることが、ままあります。

デザイナーというのは、プロジェクトの表層ではなく、むしろ深い核の部分にまで影響を与える、重要人物だと僕は思っています。

そのことを最初に知らされたのが、唐十郎さんや土方巽さんの公演をはじめとする、横尾忠則さんデザインの様々なポスターでした。

また、画家宣言をされたあとの横尾氏の作品の動向は、いつも人生に何かしらのメッセージを与えてくれているような感触がありました。

そしていま、『GENKYOU』と題された最新の展覧会を鑑賞して、より激しく、背を押され、いや、お尻を叩かれたような感じが、あります。

木場の東京都現代美術館で17日までやっていて、展示内容は初期作から現在進行の新作やコロナ関連の取組まで、膨大です。

 

横尾忠則さんの作品から、僕は個人的には、文学のように読み解いてゆく面白さと、吹き出るようなエネルギーを浴びる興奮を、感じています。

一枚の絵の中に、非常に異なるものが、いっぱい、そしてギュッと凝縮されていて、絵を見つめていると一冊の書物を読み解いてゆくような愉快さが出て来ます。同時に、その一枚の絵を描くことに費やされた集中力や労力や知力や感情の波が、高濃度かつ大量に押し寄せてくるのです。

だから、見る側にも結構な体力が必要なのですが、それゆえに手応えも大きいのです。

この展覧会では、膨大な作品を見ることができるのですが、圧巻だったのは《原郷の森》と題された最後のコーナーで、それは広大な展示エリアいっぱいに展開される、まさに「現況」と言える最新の仕事群でした。

2020、あるいは、2021、と制作年を示された作品の量とスケールが、まず驚愕でした。そしてその一つ一つの勢いが素晴らしく、それは、創作者としても、生きる姿勢としても、感じ入るものがありました。

お勧めします。

 

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ソロ公演には、一回一回の本番に独特な出来事があり、その体験と作品はセットになって記憶され、そして、その記憶の反芻が、新しい作品の種になります。

僕の場合、ダンス公演は、毎日の細かな感情の蓄積や、身体を通じた経験や、それらを元にした振付の反復、そこからまた出ては消える思考の「かたまり」によって生み出されます。

踊りに集中が高まる中で、次第に、自分の元々の考えや経験が、いったんグラグラと不安定になって、崩れてゆくような心地になることがあります。

そこには、踊りという言葉をも忘れさせ、カラダという観念をも、ぐらつかせてゆくような感覚が伴います。

解体してゆくこと、解体されてゆくこと、、、。

ダンスは、僕にとって、ある種の分解的な作業なのかもしれない、と、ときどき思うことが、最近少しあります。

そのような記述がいくつも、今年前半のノートにあり、見つめています。

7月半ばに行った今年のソロ公演から3ヶ月目に入り、新たな作品への試行錯誤が始まっています。

 

 

 

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こないだ掲載した湘南の海は、肉眼で見るとエメラルドグリーンに輝いていました。

綺麗でしたが、それは見た目は美しいが、もしかすると昨年の白潮現象のせいなのではないかという声も聞きました。コロナで経済活動が低迷した反面、自然が元に戻ってきた、ということではないようでした。

直接は関係ありませんが、海を見ていて、10日ほど前に見た(ようやく日本公開された)映画『MINAMATA』を、思い出しました。

俳優のジョニー・デップ氏が制作・主演した作品で、制作情報を知ったときは、このテーマをハリウッドがやるということに驚きましたが、目の当たりにして、快挙と思いました。

この時代にこの映画を作り得た人たちと公開し得た人たちに、敬意を表します。

僕が水俣病のことを知ったのは小学生のときでした。まだ低学年でしたが、写真を見て、ちょっとしたショック状態になってしまいました。

1970年前後のことでした。

当時、僕は親戚のいる淡路島に頻繁に行っていましたが、瀬戸内海の赤潮が年々酷くなり、その惨状を間近に見ていたこともあり、海というのは僕にとって壊され壊れてゆくもののシンボルのようでした。

そのこともあったからでしょうか、水俣の写真は、子ども心に、他人事とは思えなかったのです。

水俣の写真は幼い脳裏に焼き付き、夜の夢に何度もいろんな形に変化して出てきました。

いま思えば、この経験は、世の中について、とりわけ企業社会や経済的な繁栄や物質的な発展というものについての懐疑心を抱くきっかけになったかもしれません。

やがて、高校生のころ、この映画の主人公であるユージン・スミスとアイリーン・スミスによる写真集『水俣』を見ました。

そこには、幼い頃に観た覚えがある写真がいくつかありましたが、感じることは変わっていました。

恐ろしさや言いようのない悲しさと同時に、この写真集からは、根底からの怒りが感じられ、人間の尊厳について深く考えさせられました。「生 - その神聖と冒涜 」という副題も、強烈に胸に響きました。

また、大学の頃には故・土本典昭監督の『水俣一揆』をはじめとする作品群に触れ、その直接の内容だけでなく、表現者というものの居方や態度について強く考えさせられました。

これらを通じて、僕のなかで「水俣」の意味が少しづつ変わっていきました。それらの作品は「水俣」の出来事が、破壊の恐ろしさのみならず、人間の尊厳の問題に深く深く及ぶものであることを、語りかけてきました。

水俣病は、僕ら個々の生活基盤に深く関わる社会問題と思います。

この問題に触れるたび僕は、利己的精神について、他者への無関心について、それらから生まれてくる暴力の可能性について、そこはかとない恐怖を抱きます。そして、僕らの生活基盤を肯定しきれない気持ちになり、震撼します。

「安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる」

という、石牟礼道子さんの言葉も、また、いま思い出します。※関連記事


PS:上記写真集が復刊され、土本監督の作品も再映され、原一男監督によるドキュメンタリー『水俣曼陀羅』もまもなく公開。

 

 

 

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アンゲラ・メルケル氏がドイツ首相を退任されたこともあって、このコロナ禍が始まってまもない頃に彼女が行った演説の一部を、クラスの稽古で声に出して読んでみた。あわせて、このコロナ禍を受けて発された文学者の言葉などいくつかを音読し、それらと相まって響くであろういくつかの音楽を聴き、動いたり佇んだりして、時を過ごしてもらった。

共感もあり反感もあり、入ってくる言葉や音があり、そうでもない言葉や音も当然ある。動こうとする瞬間があり、躊躇いもあり、じっと座って聴き込んでいる時間がある。それぞれが自身の内部空間を見つめていることが、すごく伝わってくる稽古になった。

踊ったあとには、ついさっき耳にした言葉のことや音楽の感想や質問に始まり、やはりこの現在この瞬間を生活しながら思っている様々なことが、話題になり、あっという間に時間が過ぎた。

『踊り入門』(西荻ほびっと村学校・舞踏クラス)のこと。

クラス案内に書いている通り、このクラスでは動きの手本や振付をあえて提示しない。ご自身の気持ちを何か自由な体の動きで表し、必要なアドバイスや対話を重ねてゆく。その蓄積が次第に身体とイマジネーションの関わりを深めて確かな力になる。手本や振付を提示しない代わりにと言っては何だが、毎回なるべく色んな文章や詩や音楽や美術を紹介し、可能な限り様々な話題を持ち込んで、心の動きや体の動きのための環境をつくろうとしている。

見様見真似からではなく、瞬間瞬間の自身の心境の変化をよく味わい、同時に、どうすればその気持ちを体に反映することができるのか、という試みや工夫をたっぷり体験して、それから技術のことや振付のことをお教えするクラスに来てもらうのも良いのではと考え、あるいは定期クラスと並行して原点回帰がいつでもできるようにとの思いもあり、このクラスを開いた。受講者の方々のみならず、僕自身にとっても非常に大事な場になっている。

 

10月の開講予定

 

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クラスメンバーの公演でドラマトゥルクを依頼され、湘南江ノ島に来ています。(チラシ)当初は都内の劇場でやる予定でしたがコロナ感染の急増期に重なり中止、このたび場所を変えての試み。海辺で、ダンスとも芝居ともつかぬ行為の連続、あるいは、一種の遊戯。いま稽古付。夕方5時から本番。さて。

 

 

ヴィーゲランという彫刻家がいます。この人のことを友人に尋ねられ、話しこみました。以前、僕がこの人の作品を好きだと言っていたのを、ふいに思い出したのだということでした。

グスタフ・ヴィーゲラン(Gustav Vigeland 1869-1943)はノルウェーの彫刻家で、この人の特徴は、創作の中心に夫婦や親子の問題が深く捉えられてあることだと、僕は思います。子育てや家庭のことや愛する人との何かしらの問題を抱えたときに、この人の作品のそばに行きたくなるのです。

彫刻の良さの一つは、その存在の仕方だと思います。彫刻の存在は、場所に人間的な力を与えます。

例えば、上野の近代美術館にはロダンの「地獄門」や「カレーの市民」の像があり、あるいは、ルーブル美術館の踊り場にはサモトラケのニケ像がありますが、それらがそこに在り続ける限り、そこ=その場所は、それぞれの彫刻の存在が導いてくれる特別な磁場になっています。

また、野外に置かれているものには特別な存在感が育ってゆくように思います。野外では、雨の日も雪の日も、彫刻は、ある地点にじっと存在し続けます。作者の作業場からも持ち主の部屋からも離れた場所で、濡れても乾いても汚れても錆びてもヒビが入っても、じっと存在している。じっと在り続けることで、自然の力に溶けて、次第に変容し、作家のイメージや持ち主の印象から、少しづつ独立して、自立した存在になってゆくかのように見えます。

ヴィーゲランの彫刻から、僕は、そのような感じを特に強く受けます。個々の彫刻が、それぞれの独立した存在として屹立し、いま生きている人間の毎日を激励してくれるように、僕は思うのです。

泣いて怒っている赤ちゃん、いたわり合うカップル、年老いた夫婦、小さな子どもをあやす父親、、、、。

そのような沢山の彫刻から、人と人の間にある絆、人が生まれ年老いてゆくことの喜怒哀楽が、溢れ出てきます。そして、個の人生を超えて、生命や知の譲り渡しをしながら、時を紡いでゆく、人間存在なるものへの思索を、この人の彫刻群は、私たちに促します。

僕がこの人の作品に強く心を揺さぶられるようになったのは、まだ子ども達が小さかった頃でした。育児のさなか様々な辛さを抱えていたのですが、この人の作品の写真を見ると、少し心の中が明るくなるのでした。助けられていたのです。

尊敬する芸術家は沢山いるのですが、ヴィーゲランの場合は、どこか深いところから、こちらを見守ってくれているような視線を今も感じます。心を支える力とでも言えばいいのでしょうか。

これは実に凄いことで、滅多にあるものではないと思います。人生に必要な、何か、非常に切実なものが、この人の作品には宿っているのではないか、と思います。

コロナのせいで海外からの大きな展覧会が少なくなったこともあり、これまで好きだった作家の画集などを眺める日はずいぶん多くなりましたが、なかでも、ヴィーゲランの作品集や古い展覧会カタログを見つめていると、いまも、生命感覚が蘇ってくるような気持ちになります。

オスロにある彫刻公園はとても有名で、コロナが収束したらぜひ行きたい旅先のひとつです。

 

 

 

 

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