構想中の次作を手探りするように稽古しながら、きょう、という一日、について思い巡らずに、やはり、いられず。この日この東京で、かつて何があって、いま何が、あるのか。と。

動き、途絶え、また動き、そのうち、脈絡なしに、「夕べにすべてを見届ける」というベートーヴェンの言葉を連想した。なぜか、、、。

そのことばの美しさに打たれつつ、また止まる。そして、このいまの夕べに、「夜」が来るその前に、僕らは何ができるのだろうか、と、やはり考える。

考え、また踊る、踊りつつ、ベートーヴェンのいくつかのスコアが頭に浮かんで消え、踊る体の内部でそれらは混沌してゆく。体液になって蒸発する。

ベートーヴェンの音は人を励まし哀しみ、ときに瞑想の深海に、誘う。たとえば永遠に繰り返される三連符で、あるいは爆発を誘う喇叭で、あるいは気が遠くなるほど長い太鼓のトレモロで、そして急速な興奮を誘う弦のダイナミクスで、ベートヴェンは激しく心を叩く。つまり、何かを問う、何かを促す。そして、音楽は革命的瞬間の連続なのだ、ということを教えてくれる。そのように思う。

きょうのような日に、なぜこの作曲家の音符が頭の中で鳴ったのか。構想中の次作と何かの関係があるのか無いのか。

 

 

 

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寒い夜道で花を見つけた。

春が、もうすぐ始まるのだろう。

少しずつでも、何か明るいものが近づいてくるといいのに、と思う。

 

 

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新幹線の車内ニュースでカルロス・サウラさんの訃報を知った。血の婚礼にせよカルメンにせよ、それらは足音と運命を、あるいは地霊と肉を、結びつけるドラマなのかと思うのだが、その登場者や彼らの身体の有様を、まるで咲き誇っては散ってゆく花のように気高く哀しく感じたことがある。あの経験は、やはりこの人のフィルムなしに得ることが出来たかどうか、、、そう思う。サウラ監督の作品に出会っていなければ、クリスティナ・オヨスのあの狂おしい舞を知ることもなかったかもしれない。この人はフィルムを通じてダンスが最もダンスである瞬間を若い頃の僕に見せてくれたのだから、つまり、恩人とも思えて、何か特別な感情が胸をしめつけてくる。謝意を、、、。

 

 

 

 

 

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身体は言葉を呼び、

言葉は身体を育む。

身体は言葉によって変化し、

言葉は身体によって世界につながってゆく。

 

そのような実感がある。なぜそんなことを、、、。

と、新たな作品構想を進めながら、思う。

 

写真は2012年に鎌倉小学校で行った公演の稽古風景で、上記のような感覚をいだくようになったキッカケの一つが、この公演にあったかもしれないと振り返る。

『コドモのりょうぶん〜The Child's Territory』と題したこの公演は、いま思えば、東日本大震災をきっかけに連続創作した4つの作品(「TABULA RASA 20112011年7月・東京)」、「かつてなき、結晶 - 3.11/SILENT(2012年3月・東京)」、「むすび ・天地礼讃内景(2012年8月・越後妻有アートトリエンナーレ)「Hakobune:方舟(2012年10月・ルクセンブルク)を通じて出てきた、ダンスというものに対する僕なりの考えや思いを、小学生のための公演、という企画をお受けすることで、ある意味ハッキリと自覚する機会にもなっていたかもしれない。

この時の音楽(作曲・演奏=寒川晶子)は、全ての鍵盤がド音に特殊調律されたピアノによって演奏されるというものになり、舞台美術(美術=西川昌和)は、観客でもある小学生たちに書いてもらった文字が会場を埋め尽くし、そこに雨が降り注ぎ、文字が洗い流されて消えてゆく、というものになった。

あのなかで、いかなる思索や想いが実現され、かつ、実現され得なかったのか、何を見つめ、何を見つめ得なかったのか、あそこから、何が燃え続けているのか。いま、気になる。いま、次作を進めるなか、再考すべきかと思う過去作がいくつかある、そのひとつでもある。

新作を構想する時間は過去反芻の時間でもある。 

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この木の写真は、毎年ではないだろうけど、もう何回も載せている。

この木は、寒い時に美しくなる。

この木が好きで、時々眺めに行く。

私が木を見ているのだけど、この木に私が見られている、ような感触もある。

少しづつ少しづつ、木は大きくなっている。

そのことに、ふと気がついた。

木は、力をくれる。

 

 

 

 

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バタバタするうち、もう一週間以上経ってしまったが、長く関わっているダンス学校で3年ぶりに有観客の卒業公演(渋谷公会堂)が実現され、舞踊監修と演出面でお手伝いをさせていただいた。

僕自身の運営する稽古はどのクラスも少人数で個と個の関わりから生まれる踊りを目指しているが、この学校では100人単位の指導や演出を担当してきた。対照的ながら、積み重ねてきた指導経験の相互作用はあると思う。

公演では、コンテンポラリーダンスはもちろん、ストリート、ジャズ、クラシックバレエ、ほぼ全領域にまたがる演目で16歳から20歳が踊ったが、相当なエネルギーが発散され、胸を突かれた。

こないだ書いた土方さんのことを何回か話してもいた。危機に立つ身体という言葉があったが、このごろ、若い身体に、それを連想させられることが時々ある。踊りの奥に、何か剃刀のようなものがある人に、時々出会う。

最も多感な時期に震災を見てパンデミックのなかで成人を迎えてゆく世代。がんばる、ちゃんとする、そんな言葉をよく口にする。いろんな面で複雑な心情を背負っている気配を普段から感じてきたが、彼らの表現にとってそれは決してマイナスではないことを見せられた。初めてナマの観客に囲まれ、緊張し、集中し、目前の人と対峙する姿が、実に必死かつ粛々としていた。

僕個人のソロ公演は、様々なご協力や縁があって2001年夏に再開することができた。しかし、こちらの学校公演では、かなり多数の出演者とスタッフが関わるので、無観客公演が続き、公演以前の稽古運営もなかなか大変だった。この状況でこそ得られた学びもあったが、状況が長く過酷は否めなかった。

久々の正常開催で、人が人前で踊ること行為すること交感することの重要さを、人が人と同じ時と空間を共にし向き合うことの重大さを、たしかめた。

 

 

 

 

 

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週末1月21日は、土方巽さんの命日だった。

今年は稽古をつけさせていただいたあと、縁ある人の公演におじゃました。だから一日踊りを見るということで過ごすことができた。昼の稽古は〈振付・創作クラス〉と〈基礎クラス〉で、いづれも踊る身体と日常身体の相のちがいを強く感じさせられる稽古だった。踊りで振付をもらうというのは人がとても大事にしているものをもらうのだから、これは本当に踊り独自の文化だと思うのだが、この日の振付・創作クラスではいま手がけている景のおさらいをしたあと振付を味わい楽しむことと即興との深い関係について話を交わし、そのあと基礎クラスでは、さらに具体的に身体の動きを誘発してゆくための体の立ち上げ方や力加減を稽古したが、対話としても日本人の体ということや身体やダンスに対する捉え方について話が及んで、かなり重要な日になったと思う。参加の方々もこの日がどういう日なのかはご存知と思ったから、土方さんの話題はあえて出さなかったけれど、やはり自然に、この日ならではの言葉が体から出てきたのだと思えてならなかった。また、夕方に観に行った舞台というのが正確な重さに満ちていて非常に考えさせられるものだったし、たまたまお会いできた方々も沢山いられたこともあり、帰宅後は慈悲心鳥のあの少し張ったような声を思い出しながら、古い本をパラパラとめくり眺めて飲酒した。

土方さんといえば舞踏ということなのだが、僕にとっての「ひじかたたつみ」という人は、劇場・舞台というものを思い知らせてくれた人でもある。踊りの場所、つまり、「ひとの前に立つ」「ひとを見つめる」という文化を創始した古人は本当に偉大だと思うようになった大きなキッカケは、この人の公演だったのだ、と今リアルに思う。そして同時に今リアルに感じていることが、このコロナ禍のえげつなさのなかで、ようやく少しづつ劇と踊りの回復を探り始めながら、やはり、人が人の前に立つ、生身の観客が生身の演者を受け止める、ということは素晴らしいことなのだという感情の再燃である。観る、という言葉のほかに、立ち会う、という言葉があるが、これも受け止めなおしたい言葉だ。舞台芸術は、まず人がそこに居る、という大前提から始まる。聖書外典のひとつに、真を知りたくば劇場に行け、という文言があったことを思い出す。

人と人の交響が生み出す瞬間を、その凄さを、やはり思う。

 

 

 

 

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冬もピークなのかな、とか思いつつ、抱えるもの一つ一つをなんとか解決しようとする。

そして、春を待つ。

 

写真は昨年のサクラ、奈良で撮影した。

ちょうどこの辺りで生まれて育った。

あの日、見ておいてよかったと、いまなぜか思う。

 

近ごろ身の回りで、命に関わることが多く、花の美しさが、かつてなく刺さる。

花というものが、こんなにもきれいなのだということを、いまさら、覚える。

こういうことが少し増えてきた気もする。

 

あの日、あの絵を見ておいてよかった。あの踊りを見ておいてよかった。あの音楽を、、、。

そんなことを思いつつ春を待つ。

春を、思い始める。

 

 

 

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クラスの前にようやく自分の稽古はじめを行い、反芻中の前作ソロの返し稽古に加えてベートーヴェンのクロイツェルをさらった。

上はクラスレッスンでもたびたび踊ってもらっている曲でもあるけど、これを踊っておかなければと思ったのは、構想中の新しい作品にも無意識のどこかで関わっているのかもしれないと思うからだった。そういえば年末に第九を何度もきいた。どちらも、聴いても聴いても刺さり、ズキズキする。二曲いづれも舞台で踊ることはまだ出来ていないが、いったい何年くらい聴き続けてきたのだろう、もはや一生聴き続けるかもしれない、とか、思ってしまう。

同じ音楽を、何度も、何歳になっても、聴き続けることができるのは素敵だと思う。何歳になっても聴き続けることが出来る音楽を生み出せるというのは、もっと素敵なことだと思う。そのような曲をいくつも産んだベートーヴェンはやはり、とてつもない。

踊るとき、なぜか音楽は知らない猛獣みたいだと思う。舞台で踊った音楽は結構あっても、どの曲も、もういいかなと思ったことがなくて、次にこの曲を踊るときはああしたいこうしたいと妄想してしまう。例えばベートヴェンの場合でも、昔々オケにいたころ初めて演奏したのは6番だったということに始まり、ずいぶん色んな機会にさまざまな曲が出現したが、曲から髪を鷲掴みにされたような思いが何度も湧いて、いったいこの作曲家は何者なのだろう、と、いつも思えてきた。

僕が興味を持ってしまうひとつには反復性ということもあるかもしれない。繰り返すこと。これは僕のダンスにもどこか重なる気がする。常に新しくあることは常に異なってゆくことではなく、繰り返しをいかに生き活かすことができるかという反復にこそ新しさが宿るのではないかと、僕は考えている。ベートーヴェンの音楽の中では、いつだって何かが繰り返される。何かが繰り返されながら、繰り返されることによって、熱を帯び力を蓄え光を放ってゆく、そんな感じがする。確かに感じる。

繰り返す、ということ。これは、僕にとって、生活的にも舞踊的にも創作的にも、とても必要なことだったりする。同じ本を読み続けたり、同じ人と話し続けたり、同じ場所に行き続けたり、そういうところから、僕の場合は、踊りが出てくる元があるのではないかという気もする。「繰り返す」という行為には、人間にとって根源的な重要さがあるのではないか、と僕は思っている。繰り返すことによって、自分では気づかないほど少しづつ認識力や生命力が宿ってゆく。ダンスを通じて、そう感じてきた。

同じことを何度もやるのはつまらないと言う人も沢山いるが、僕は同じことを繰り返し続けてきた。同じことを繰り返すことからこそ、何かを開発することが出来ると思っている。また、繰り返しが出来る人を立派だと僕は、感じている、感じてきた。

「繰り返す」ということから、稽古や練習に関わる「り、はーす」という言葉も連想する。reは反復、hearsは鋤で耕す、ということだから、リハーサルというのは繰り返し耕すという意味なのだろう。そこに現れているように、「踊る」というのは、繰り返し動き、ながら、すなわち、身体を耕すことだったりもする、そんな気がしてならない。踵や指先や心臓や背中から、膨大なものが脳味噌に流れ込んでくる。繰り返し動き、繰り返し感じ、という、そのようなことからこそ、何か、始まりの種子が育ってゆく。そんな気がしてならない。

「繰り返し」動き、「繰り返し」感じ、「繰り返し」歌い、「繰り返し」語り、「繰り返し」泣き、「繰り返し」苦しみ、「繰り返し」味わい、、、。

「繰り返し」は身体を存在を耕してゆく。何かを繰り返すことからこそ何かを生む土になってゆく。もしかして、すべてはそこからなのではないか。

と、いまおぼろげに、おもう。

 

 

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受け容れる、

ということから

踊りは始まるのだろう、

なんて、今更またしきりに思う。

伝えようとする前に何を受け止めたか受け止め得たかということがないと、踊る、ということ自体が始まらない気がして、ならない。

現実のことでも夢でも予感でも何かしらが、訪れて、それを全面的に、感覚し感受する、ということが、肉体を振る、のではないかという感触があって仕方がない。

これという出来事とか原因があったわけではないのだけれど、ある日の稽古を境に、ずんと思うようになった、冬の気配がする頃だったが今年の新作公演を事後検証するための稽古を何度か繰り返していた。

上演が終わった作品を稽古することは次作への結構大事な作業なのだけれど、それと同時に、ちょっとした痛みにつきあっていた。

体の痛みや心の痛みは、いろんなことに敏感になるのか、やはりある種の回路を作り出すのかもしれないし、作品反芻と同時に、体を反芻するというか、舞踏体というもの自体を経験しなおそうとしていたのかもしれない。

踊り、というのがなぜかくも抑えがたいものなのか、、、。

踊り、というのは表現でもあるが、表出でもあるんだと思う。意図的な行動でもあるが、抑えがたい衝動から出てくる純粋行動でもある、そう思う。

言い換えれば、それは意識と無意識の同時シンクロであるし、何かの訪れによって自分の奥のほうが波立ち、肉体が何かを受け容れて別の存在感に変容してゆく、ということだ。

これは、一種の存在の「旅」なのではないか、とも思う。

ワタクシというものが

ふとマッシロくなって

「いれかわってゆく」瞬間、、、

そのようなことを作品とか舞台に反映することができるには、どれくらい時間がかかるか分からないが、やはり、これは課題と思えて仕方がない。

そんなことを思いつつ新年の数日を送る。胸のなかが、ざわざわする。

 

 

 

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