映画『Missing ミッシング』の伝えたかったことは、今の時代だからこそ重い | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

 現代のSNS(ソーシャルネットワークサービス)社会においてこそ、より意義があるかなと思えた映画🎥『Missing ミッシング』(吉田恵輔監督・脚本)だった。また、テレビ報道のあり方をも含めて、現代社会の我々を取り巻くメディアをどう捉えていくのかということにも切り込んでいっていたのかなとも思った。

 自分なりに、一生懸命に子育てをしていきながら、母親としても主婦としても頑張ってやってきた。そんな母親がちょと息抜きのために、6歳の娘を弟に預けて、自分の好きなライブに出かけた。その夜に、事件は起きた。娘が帰ってこなかったのである。

 この行方不明に関しては、当然のことながら弟が疑われた。失踪した子を最後に見ていた人物でもあったからだ。その弟は、女の子と家の近くで別れた後の行動についての口実が曖昧だった。そのことで余計に疑われることになっていく。ただ、彼としては、その後はあまり表立って言えない場で過ごしていたという事実があった。

 6歳の娘の失踪がニュースでも報じられ、夫婦は必死に娘を探し求める。手掛かりはありそうだけれども、具体的には進んでいかない。そんな二人の様子を地元の静岡のローカル局の報道部がドキュメント的に追いかけて報じていく。母親は、そのことで情報が得られれば、何かの手掛かりになるのではないかと必死になっていく。しかし、父親の方はテレビの取材や演出に対しても100%の納得はしていない。こうして、夫婦の中にも、気持ちのズレが生じてくる。

 テレビの取材スタッフは、ニュース報道でも視聴率至上主義で過度な演出もしていく。それは、当事者の思惑とは異なる形にもなっていく。その一方で、ディレクターの中村倫也は、事実を伝えたいという思いを上層部にも伝えるのだが、この事件に関して局内でも徐々に熱が冷めていく。そんなジレンマの中で焦燥感も出てくるディレクターだった。

 また、テレビで報じられて、取材に応じたことで、弟に対しての誹謗中傷はSNSの中ではさらに進んでいき、犯人扱いとなる。そして、被害者夫婦に対しての誹謗中傷も絶えなく、度を越していく。そのことで、夫婦の関係性も崩れかかっていく。匿名の批判によっても傷つけられていったのである。

 観ている側としては「果たしてこの先どうなっていくのだろうか」という興味もあった。そういう意味では、映画の演出にも引っ張られていった。また、母親役の石原さとみの大熱演も光った。彼女自身も結婚して母親になったということもあるというが、今までの石原さとみのイメージとは異なる役どころでもあった。

 作品そのものは、映画的結論としてのハッピーエンドではないし、結論は出ていないとも言えよう。だけど、ネット社会を含めた今の時代のメディアのあり方。それらを我々がどう自分のものとして対処していくのがいいのか。何が正しくて何が真実なのか…? そんなことを表現されていて、ボクとしても大いに考えさせられた。

 コロナ禍の時もそうだったけれども、今の時代は、正義の仮面を被ったネット警察が横行する社会でもある。ネットでは、無責任な匿名書き込みで誹謗中傷して、人を平気で貶めていくこともあり得る社会なのだ。そんな今の時代の闇にも触れているということでは、その描写は秀逸だったと言っていいであろう。