先日、辞書編集者の様子をテレビで紹介していた。そういえば、以前『舟を編む』(2013年作品/三浦しをん原作/石井裕也監督)という映画があって、その担当編集者が松田龍平。その彼女が宮崎あおいで編集責任者を加藤剛がやっていたのを思い出した。その中でも「用例採集」という行為が紹介されていた。その言葉自体も、その作品の中で初めて知ったのだけれども、その作業に関しては,ボクも極めて興味深かった。
用例採集というのは、街角などを歩きながら、新しい言葉の使い方や、新しく使われている言葉を拾い集めていく作業である。そのその意味を検討して改訂版に辞書として掲載するのか否かを決めていく材料としていくための資料ということらしい。つまり、「言葉の用例を現場で採集していく作業」ということである。その根底には、言葉は生モノであり、時代とともに変化していっているという現実があるからだとも思う。そうした作業の中から、かつては否定されていた用例なんかも、今の時代では使われても間違いではないという解釈もできるということだ。
例えば、「全然」という言葉の後には、一般的には「……ではない」という否定語が来るのが従来の用い方だった。ところが、現在では「全然可愛いよ」とか「全然面白いですね」と言うように、「断然」という言葉と同じように用いられている。つまり、「全然」という言葉の後に、肯定する言葉が来ることも間違いではないようにもなっているというのだ。もっとも、ボクなんかは、やっぱりそういう使い方は「全然好きになれない」んだけれどもね…苦笑。
あるいは、ある業界用語だったものが、一般的にも普及してきて、その用語そのものが多くの人の間で一般的に用いられるようになって定着していくという例もあるようだ。
「NG」なんていう言葉も、かつては映像業界などで「No Good」の略として用いられていたのだけれども、それがいつしか一般的にも普及して「ちょっと明日はNGだから」とかいうように使われている。「ドタキャン」なんていう言葉も、同じような派生ではないかと思う。
そんな一方で、都知事時代の石原慎太郎は、記者会見などでは「誤謬」とか「畢竟」といったような難しい言葉を意図的に用いていたようにも思う。そのあたりは、作家としての矜持もあったのかもしれない。ある意味では、今の小池百合子のカタカナ言葉と同じような位置づけで使っていたのかもしれない。「失敬」という言葉も、石原慎太郎は比較的好んで使っていたような気がする。
そういえば、かつて石原慎太郎は、都議会の後か何かで、記者たちの囲み取材で「今の心境は、どんな気持ちですか」などと訊ねられて、「『天気晴朗なれど、波高し』と言ったところだな。まあ、わからないだろう、キミたちには。教養がないからな」なんて答えていた。いささか失礼なものいいかもしれないけれども、聞いていたボクとしては、どこか痛快な気持ちがしたのは、政治家としてはともかくとして作家としての石原慎太郎は嫌いではなかったからかもしれないなぁとも思う。教育と教養の違いを上手に区分けて、相手に悟らせているあたりも素晴らしい。
そういえば、かつて加賀まりこが何かのテレビ番組で言っていたことも印象的だ。
「以前、石原慎太郎さんも一緒にブロードウェイを観に行ったことがあったんですよ。その時に私が感激して『凄い! スゴイ!』って喜んでいたら、『キミは、女優なんだから、もっと別の言葉でも自分の感情を表現しなさい』と言われたことがあるんです」
まさに、そういうアドバイスこそ、作家・石原慎太郎の真骨頂だろう。言葉をどれだけ意識しているのか、それは大事なことだと思う。
だから、今の若いヤツらの「げっ!」「マジッすか」「ヤバい」しかない感情表現の言葉に対して、どう思っているのだろうかとも思うけれども…。多分、どうでもいいのかなぁ。


