物心がつくというのは、いつ頃からのことを言うのだろうか | (株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

(株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

ついこの間始めたばかりだと思っていたこの会社も、干支で言うとひと回りを越えて、15年目に突入してしまった。その間には、コロナ禍や事務所の引っ越しも含めていろいろなこともあったかな。そんなことを思うと、まあ、よくここまで持っているかなというところだろうか。

 岡山にいる孫が、この春、小学校に入学するので、入学祝などを送った。

 去年の秋には、2人目の孫が誕生したりもして、お祝い続きではあるが、何かと物入りで過ごした半年となった。とはいえ、そういうことができるのも幸せだと思わないといかんと、あらためて実感している。

 今年の正月にお年玉代わりに、モロモロの絵本を送ってあげたら、「エライ、喜んでいたよ」と、母親(つまり、オレの娘ということになるのだけれども)が言ってきた。

 ところで、自分のことも振り返ってみながら、果たして人は幼少時の記憶はどれだけあるのだろうかと思った。5歳になる前に名古屋市内から、当時はまだ知多郡知多町と言われていたところの新舞子という地に引っ越してきた。その記憶は、あるようなないような、というところだけれども、その後に新舞子で、もう一度引っ越したことはよく覚えている。

 ということは、おおよそ5歳前後くらいからの記憶は、それなりにあるということだろう。ただ、自分としては、その前に名古屋市内で伊勢湾台風に遭遇して、手漕ぎの船で今の中村日赤に避難したことや、三つくらいの時に初めてのおつかいでアイスクリームを買いに行って、コケたことを覚えている。

 そうしたことを、断片的に覚えているのだが、それは案外、後で聞かされて自分なりにそれをイメージしていたことで記憶となっているのかもしれない。

 ただ、まあ、オレなんかは、「十の神童、十五の才子、二十歳過ぎたらただの人」を典型的に具象してきた人間だけに、幼いころほどお利口さんだった。

 小学校に入る前に、大相撲の力士の名前を漢字で書けたり、名鉄常滑線の新舞子から新名古屋(当時、現名鉄名古屋)までの駅名を言えたりと…。そんなんだから、徳島の祖母ちゃんなんかは、「この子は偉者になるでよ。大鵬と柏戸や栃ノ海がもう、漢字で書けるんでよ」なんて言って、絶賛してくれた。まあ、その成れの果てがこれだからなぁ、何をかいわんやですわ(苦笑)。

 それでも、落ちこぼれたりひっくり返ったりしながらも、何とかここまで来られたので、良しとしようか。まあ、祖母ちゃんも「ここまで、無事に生きられてよかったでぇ」などと、思ってくれとるのではないかと、そんな風に考えるようにしている。

 多分だけれども、ウチの孫も、母親からいろいろ語られたりしながら、起きたことを自分の記憶として育んでいってくれるのだろうなと思っている。何はともあれ、楽しく学校へ行ってもらえればいいのかなぁと思っている。