今の世の中、何気ない日常の中でも、息苦しさ(生きぐるしさ)を感じるのは確かだ。
昨年から続く、コロナ禍での自粛警察やマスク警察と言われる存在もそうかもしれない。その根っこには、「自分は正しいから、正しい自分が他人を干渉なくてはならない」という姿勢があるのかもしれない。そうした考えは、世に蔓延しているのではないかとは思う。それは俗にヤフコメ民と言われている、ネットニュースで報じられていることに対してのそれぞれの匿名コメントにも表れているのではないか。少なからず、そういう過干渉の要素はあるのではないかとも思っている。
ことに、SNS時代となっている今の世の中は、ネットのコメントやツイッターと言われる世界の中で、すぐに一人の人間をつるし上げてしまう。場合によっては死に至らしめてしまうということまで起きている。
そういうこと自体がやはり、ゆがんだ社会観念としか言いようがないと思うのだが…。ただ、コメントしている本人は、それが正義だと思っているから始末に負えん。あるいは、自分はそれが楽しい、だからいいのだという考えもあるかもしれない。まさに正義中毒である。
そんなことも考えさせられるのが、今回の『マダム・ノイズィ』(天野千尋・監督脚本)という映画だった。これは、現実に2005年にあった、隣人の騒音問題事件がベースとなっている。
隣人トラブルというのは、マンションや隣接した建売住宅タウンなどでは少なからず起きているようだ。ボク自身は幸いにも遭遇していないけれども、自分の価値観、自分の常識観、社会観で判断すれば、隣人のそれは異常な行為として捉えてしまうということはあるかもしれない。
ただ自分に直接害がなければ、それはそういうものかということで波立てることにはなるまい。しかし、自分に少しでも害が出ると、そこの根っこにある自分の社会倫理が隣人攻撃となっていくのだ。
そんなことも根底に描かれていた。そして、ボク自身も映画を見ながら、果たしてどっちが正しくてどっちが真の犠牲者なのだろうかという気にもなっていった。そういう深い演出となっていた作品でもあった。
当初は昨年5月公開だった『マダム・ノイズィ』だったが、コロナの影響で公開が遅れたようだ。そして、こうしたコロナ禍で観ることによって、さらに今の世の中で起きている現実の隣人トラブルが誰にでも起こりえることのようにも感じられた。
映画を見ながら、同意しながらも、最後に思わぬ展開となっていって、「ああ、そういうことなのか」とも思わされる作品となっていた。果たして、人にとっての「常識」とは何なのか…。本当に正しいのは、どっちなんだろうという気にもなってきた。
かつて、あの角川春樹が、「オレの常識は社会の非常識、社会の常識はオレの非常識」と言ってのけていた。そこまでの断言力はなくても、みんな自分の中での何が本当に正しくて正義なのか、そのことを確信持って言えるのだろうかとも思ってしまう。果たして、人間の本質というのは何なのだろうかとも思わされた。
だから、今、自分の前で起きている現象に対しても、いつも自分もワンオブゼムのつもりで対処していかんとイカンのではないかという気にもなる。それが、実はこの映画の作り手側からの提言だったのではないかとも思う。
「相手の立場になって考えなさい」なんてことは、それこそ学校時代の道徳の授業でも、当たり前のように言われてきたことかもしれない。だけど、本当に相手の立場になってモノを考えられているなんていう人間は、実は聖人君子でもない限り極めて稀有なことなのだ。みんな自分のことから考える。あるいは、自分は安全地帯においてから、他人批判を始めていく。その中で、いかに社会に上手に同化して同調していくのかということなのかもしれない。決し大作ではないけれども、見ながら考えさせられる、奥深い作品でもあった。
なお、監督の天野千尋は愛知県岡崎高校出身で、名古屋大法学部を経てリクルート勤務。その後に、映画界に進出して演出家となったという経歴である。


