大正時代の歴史を、もう一度おさらいしてみた | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

 先日、🎦「大コメ騒動」を観たことによって、もう一度大正時代とは、どんな時代かおさらいしてみたくなった。幸いにして、娘が中学、高校時代に使用していた日本史の教科書は、とってあったので、それを参考にしながら。しかも、あまり繰り返して見ていたであろう形跡がないので、ほぼ新しい状態に近い(苦笑)。.

  明治~大正~昭和~平成…そして令和と元号が続いていく中で、現在進行中の令和は別として、大正時代はもっとも短く、昭和の4分の1、明治の3分の1、平成の半分くらいの時間しかなかった。それでも、その間に日本は、その後の基礎を作り上げるべき社会現象にぶつかりながら、新しい国家を作り上げていこうとしていた。それが大正デモクラシーと呼ばれる形で表れた。その一方で、大正ロマンとも言われる文化的なものも大きな流行をもたらせていった。

 そんな時代の中で起きたのが米騒動だった。.

 その背景は、1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦に日本も協商側(=連合国でイギリス、フランス、ロシア)に着く形で参戦したことからだ。日英同盟を理由に日本はドイツに宣戦布告。ドイツ勢力下の中国山東省を攻撃して青島などを占拠。

 一方で、ロシアでは革命が起き、レーニン主導となって社会主義国家のソビエト連邦を成立させた。ソ連はこれでドイツと単独講和を結んで戦線離脱。

 これを快く思わなかった連合国側はソ連に干渉。この機に賛同した日本軍も、シベリア東部に7万人以上の兵を送り込み、主要都市を占拠した。これがシベリア出兵である。

 また、第一次大戦で日本は大戦景気で軍需品や船舶・鉄鋼の需要が拡大一方で、都市部に人口が集まり出して、日本人の主食である米の需要が激走し、供給が追い付かなくなって米の値段が急上昇していった。さらに軍需景気で成金と呼ばれるお金持ちを生み出した。彼ら豪商や地主たちはシベリア出兵を見越して米を買い占め、米価はますます高騰した。

 これに堪忍袋の緒を切らしたのが富山県魚津で勃発した女一揆だった。これが米騒動として報じられると、全国に波及していった。それらを軍隊や警察で抑えようとした寺内正毅内閣は新聞などで非難され、総辞職に追い込まれていった。

 これが、主な米騒動の顛末で、その後、立憲政友会の原敬が首相となって、最初の政党内閣ということで「平民宰相」と呼ばれて期待された。

 こうして、日本にも本格的政党政治が展開されていくこととなったのだ。

 それらの一連のことが、大正時代前半に起きた社会的な事柄でもあった。内政的には、高等教育の充実や鉄道・道路・港湾の拡張を行い、いわば今でいう社会のインフラを確固たるものとしていったのだ。

 しかし、一方では軍隊の増強は続き、富国強兵は継続されていった。こうして、その後の第二次世界大戦(太平洋戦争)への伏線も、徐々に敷かれていったのである。それにしても、こうしてみると20世紀前半というのは世界的に、戦争の歴史、争いの連続史でもあったんだなぁということにも改めて気づかされる。

 もちろん、そんなことは当時は誰も思ってはいなかったであろうが…。日本を強国としていくことが、さらなる発展につながっていくのだということは信じて疑わなかったのであろう。

 昨年の暮れに『天外門』を見た時にも、明治維新とはどういう時代だったのか…ということを、ちょっとおさらいし直してみた。

 こうやって、映画や何かの番組を機に近代史の部分を今を踏まえて見つめ直し、おさらいし直してみると、また、新たな発見や気づきもあるのではないかということもある。最近ちょっと、そういうことも面白いかなぁという気にもなってきている。