かつて「原因と結果の法則」という本を手がけたことがあった | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

 すべての出来事には「原因」があるから「結果」がある。だから、結果を冷静に見つめ受け止めることによって、その原因を理解することができるということだ。そんな、当然至極のということだ当たり前のことだった。

 それがジェームス・アレンという19世紀から20世紀初頭に活躍したイギリスの自己啓発作家によって書かれた『原因と結果の法則』だ。実は、これをチャートをつけたりして、限られた文字数にまとめて見開きで紹介していくという本を何冊か手掛けたことがある。もう、15年以上も前のことになる。

 今、それをパラパラとめくって見ていると、とても当たり前のことしか言っていないのに、「なるほど、そうだよな」と改めて認識する。

 つまり、人間の行動も心情もすべてが一つの法則に従って成長していくものなのだということ。それを述べているのが「原因と結果の法則」といわれるものなのだけど比較的納得する。要は、それは計算をしてどうにかなるというものではなく、計算以前の問題として、すべてのことは、始まった原因によって結果へ向かって走っているのだということである。

 生きていく上で、そんなに難しい理屈はいらないということなのだ。。

 それは、この世のすべての真理として、目に見える物質のすべてには「原因と結果の法則」が成り立っているということだからだということになる。このことは人々の思考という目にすることのできないものに対しても間違いなく及んでいる。だから、その真理を知っていることが、その人の心を和ませ安心させる要素となっていくという考え方なのである。

 いわゆる人格者といわれているような気高い人の人格も、天から特別に与えられるものではない。まして、偶然に手に入れるというものでもない。それは、自分自身の思いや信じたことに対して、正しい思いで考える努力をし続けることによって自然にその人に備えられていくものだということだ。

 それが、その人の心が自然にでき上がっていくことになるのである。つまり、崇高な思いを大事に心に抱き続けた結果として、原因と結果を理解することになる。そして、そのことで穏やかな人格と心を、その人に育んでいくことになるのだ。

 反対に、あたかも獣のように品格のない人格が作られていく場合もまったく同じだ。つまり、その人が卑しいこと、品格のないことばかりを考えていれば、自然にその人間は卑しく品格のない人間になってしまう。元になる考え方が卑しければ、結果としてその人間が卑しいのは当然のことなのだ。

 結論として、私たちは自分自身の考え方や心の持ち方一つで、人生そのものをいいようにも悪いようにも作ることができるということだ。それならば、いいように作っていくに越したことはないはずだ。いいように作っていくには、心の持ち方を穏やかに、人に対して感謝の気持ちを忘れないように、自分自身の気持ちを育成していけばいいということである。

 思考は、自分自身を作っていくための工場。その工場で、自分自身を破壊する武器を作ることもできれば、喜びや強さ、心の安らぎといった精神的な豊かさを作り上げることも可能なのである。

 こんなような理論を展開していきながら内容は進んでいく。正直、どこから読んでも、ある程度同じようなことが述べられているので「あれ? ここ読んだかもしれんな」ということにもなる。だけど、それがそこそこ売れて、似たような内容の本を何度も手掛けられたということは、そんな当たり前の考えも、日常の中でどこかに忘れてしまっているということも多いからではないだろうか。

 自分自身が、人として生きていくことに対して、正しい方向を向いていれば、やがてその蒔いた種が花を咲かせ、実になっていくということなのである。そういう心理も、今のコロナ禍で再認識しながら考えていくも一つの精神浄化になるのかもしれないなとも思っている。