しみじみと、「時の流れに身をまかせ」ておけばいいかなと思う時 | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

 ついこの間に21世紀になったと思っていたのに、既にそれも20年が経過しようとしている。気がつけば、これもビックリのことだ。果たして、その間にボク自身の周りで何があったのか、そして日本ではなにがあったのかと思うと、時の流れを感じざるを得ない。

 こうして、時間というのは流れていくのだなぁと、しみじみと思うのだけれども、ふと、「5年前、オレは何をやっていたのかな、どう思って生きていたのかなぁ」なんてことを思うこともある。

 ボクの場合、自分自身の生活メモとマインドや精神的なことも含めた記憶メモということを意識してノートに日記をつけている。それはいいのだけれども、正直、これはほとんど他人が目にすることはない。

 そして、それとは別に、ここに示しているようにブログというような形で、これはある程度人に読んで戴けることも意識しながらの記録もしている。これは、ちょうど、今の会社を設立した際に、始めたものである。小社のホームページを作成してくれたり、ボクが弱いインターネットメディアに関することのアドバイスや技術的なことも手伝ってくれている中西広充という人に薦められて、Facebookとリンクさせながら始めたのだ。

 そこで、毎日ではなくてもいいから、『ほぼ週刊テヅカジン』という形でエッセイ的に書いておこうという程度に始めたものである。

 さこで、ふと、5年前って何やっとんやろかと思って読み返してみたりもする。

 

 そうしたら2015年11月にはこんなこと書いていた。、

 

< 今や二所ノ関部屋の女将さんでもある高田田みづえの歌に『秋冬』というのがあった。「季節の変わり目を… あなたの心で知るなんて… もう恋はもう恋は 終わるのですね」なんていう歌詞の歌があった(作詞・中山丈二)。

別に、そのことは何も関係ないのだけれども、なぜか早朝の東京都内を自転車で横断していたら、そんな曲の歌詞が頭の中を巡りだした。

 

そう、確実に秋になっていて、都内も緑から紅葉に転じており、それがやがて冬になろうとしている、そんなところも多く見受けられるのだ。

自転車で、景色を見ながら走っていると、そういうことに少しは敏感になる。それは、それでいいことではないかなぁなんて、勝手に思っている。

九段上に差し掛かるところのお堀

 

それにしても、こうして自転車で亀戸から錦糸町のラブホテル街を通り抜け、両国橋を通って隅田川を渡り、さらに内堀通りか外堀通りか、その時の気分で走っていくと、東京都内、それも山手線内には意外と公園なり、緑地が多いということがわかる。

 

もっとも、神宮球場というか、神宮外苑がそもそも公園である。さらには、東京はど真ん中に皇居があって東宮御所があってと、そういった皇室関係の土地があるわけで、そこには人工的であったとしても、自然環境は整えられている。だから、皇居の周りをランニングする人が多いのもわからんわけではない。



坂を上り切ると、靖国神社がある

 

そんな気分でスイスイとでもないけれども、えっちらおっちらいわゆるママチャリというか、名古屋弁でいうところのケッタを走らせて、神宮球場までの約9キロを走りぬく。

かつて、『ブラタモリ』でもやっていたけれども、東京都内は意外と坂が多いので、上り下りで、結構なエネルギー消費にはなるのだろうかと…思う。



東宮御所近くの風景

 

九段下があって、九段上があるのだけれども、「そうか、上があって下があるということは…、やっぱり坂になっとるんだなぁ」などということを改めて実感するのである。>>

 まだ続くんだけれども…、このあたりで後略。

 思えば、この頃は秋口に骨折していて、その回復を焦るばかりに松葉杖が嫌で無理して歩いていたことがたたって、坐骨神経痛になってしまい、それに悩まされていた時期である。だから、歩くのが苦痛でむしろどこへでも自転車で移動していた時期だった。

 こうした過去の記述を見て、「ああこんなことがあったんだなぁ」なんて思うのも、またしみじみと、歳をとったということかな…。そういえば、これを書いた当時のオレはまだ50代だったんだもんなぁ。

ここは、かつてビートたけしがバイクで転倒した付近