1986年当時の上野バイク街❗️
街を歩いて各ショップからパーツを集めたら凄いレーシングマシンが出来上がるって言われていたくらい数々の専門店が集まった大きなバイクの為の街だった。
そんな上野バイク街のSP忠男上野タイヤセンターでRZ125を買っちゃった😅 売ってくれたのはここで働いてたウエハタさん、前の筑波選手権SP125で優勝したマシンって聞いて😳 すぐに買う事を決めた。
1989年の筑波ロードレース選手権 第6戦のSP125のリザルト❗️
ちょっと前までは200台を超えるエントリー台数だったんだけど… この頃はだいぶエントリー台数が落ち着いてきてた。 … とはいえ参加台数は144台、出走台数は129台と、今とは比べ物にならないくらい多かったよね。
俺もこのレースに出ていたんだ😊
Facebookで金山(金ちゃん)がアップしてた画像を拝借
ポールを獲得したのは金ちゃん❗️(元SP忠男レーシング)
他にも後に国際A級になって全日本選手権で戦った坂本や天野ちゃんもグリッドに名前があるね😊
このレースは俺も覚えてるんだけど、YAMAHAのTZR125が全盛の時代に旧型でYPVSも付いてないRZ125で出てた俺… 決勝進出した中でRZで出てたのは俺1人だった😆 報知新聞にこの事が取り上げられてて記念にその新聞を持ってたけど、どっかにいっちゃった…
たしか… '89からアップハンからセパハンにしても良いってレギュレーションが変わったんだよね。 俺も速攻でタレ角のキツイセパハンを買ってきて付けて走ってた。 それ以前はバーエンドがトップブリッジより下にいったらダメってレギュレーションだったんで低めのパイプハンドルを付けて走っていた。
決勝は雨☔️… 当時は雨でもクソみたいなドライタイヤで走らなきゃいけなかったんで、その当時は若手ライダーでイケイケなヤツらばかりだったんで😆 雨となるとマジでサバイバルレースになる事は常だった。 このレースも皆んな転んでたね…😆
結果は14位となっているが… ※マーク付いてるね💧
どうやらフライングしてたみたい😄
なにやってんだよ…😆
タイムは17秒3で5番手タイムくらいまでは出せてたんだね。
前にも書いたけど、
そこからの小林少年のレース人生はこんな…
1989年のレースはこんなレベルのレースが続いてたんだけど、シーズン終盤にSSフクシマの社長に「来年俺を走らせてください!」ってアホな売り込みに行った😅 ミニバイクではチャンピオン取ってみたりそこそこ成績もあったんでそんな事を手書きした成績表を持って社長に売り込んだ。 今思うと恥ずかしい事をしたと思うけど… 当時の小林少年は真剣だった。
「だったら最終戦の富士スピードウェイ SP250に出てみろ」ってフクシマ社長に言われて😱 このオーディション的なレース❓に知り合いに頭を下げてNSR250Rを貸してもらって出たら… 決勝で前戦までのコースレコードを上回るタイムを出せて結果9位でフィニッシュできた😁 翌年、1990年からSSフクシマのライダーとして走れる事になった。
この時の情熱は今思い出しても凄いな〜って思う。
走った事もない富士スピードウェイ、乗った事も無いNSR250R… なぜ速く走れたか❓ 記憶に無いくらい必死に走ってたんで、よく覚えてないんだけど… ただ誰よりも情熱はあったかな❓
すでに当時の有力チーム、スガヤスーパーハッカで走ってた菊池さんなんて… マジで雲の上の存在だった💧
1年で27回も転けてた…
翌年、1991年はチームをRTコシカワ八千代に移籍❗️
開幕戦から優勝を飾りその後も表彰台に立ち続けて、バトラックス3時間耐久レースを優勝して最終戦を残してシリーズチャンピオンになれた。
移籍前にチームから言われていた条件は「シリーズチャンピオン」だったので、約束は守れた。
最終戦は大人の理由で❓… 再びチームをSSフクシマに移籍して出場した💧
この最終戦を優勝すれば翌年から全日本選手権GP250にSSフクシマからフル参戦させて貰えるってゆ〜条件で走った最終戦❗️
約束通り優勝🏆した❗️
国内A級を飛び越えて2階級特進の特別昇格をして1992年に国際A級に昇格した。
国際A級初のレースとなった筑波大会❗️
この前に新型RS250のシェイクダウン中に筑波のS字1つ目で大ハイサイドを喰らい… 左足の指の骨🦴が全部バッキバキに折れて入院してて、あまり走り込みができてなかったんだけどなんとか12位になってポイントを獲得できた。
因みに、当時はワークスマシンやメーカーキット入りの車両を入れたら、それだけでも15台は居たしエントリー台数も60台くらいと多く… 予選落ちするA級ライダーも大量に居た。
が… わずか3戦でSSフクシマは全日本を撤退😱
俺は意地でも辞めたくなかったんで、マシン貸与って形でド.プライベーターとして残りのレースを戦った。
この時、メカニックとして手伝ってくれたのがハマオだ❗️ 「財布は持ってこなくていいから…」ってだけの条件でも来てくれてたハマオ…😢
本当にありがたかったし楽しかった。
ハマオと当時の彼女と俺の3人だけのチームだった。
もちろんレースではずっと苦労してて、まともな成績も出せなかったけどね。
因みにこの1年で俺の借金は500万を超えていた…😰
そんなハマオは俺が2018年に再びレース界にリターンした時からまた俺とコンビを組んでくれた。
本当にありがたいヤツなんだ😊
1992年にSSフクシマのアップデートしない車両で苦戦していたんだけど、富士スピードウェイでの全日本の時にたまたま100Rのイン側で見ていたJhaレーシングの本田社長が「あの元気の良いヤツは誰だ?」って… 事で1993年からJhaレーシングから全日本を走れる事になった。
が… ヨーロッパ向けのBキットエンジンの開発って事で毎戦違うスペックのエンジン、更には素人メカニックに苦戦して… レースが嫌になった。
何回ウォーターホースが抜けて転んだか…😖
1995.1996年はTeam AKAGIのチーム名を使って全日本選手権GP125に参戦を開始した‼️
企画書を書いてスポンサー活動してみたり、慣れない仕事も多かったけど、羽鳥誠、大久保修二、若い2人のライダーを率いて監督兼ライダーって感じで全日本選手権に参戦した。
またRZ125に乗ってた頃みたいなレースになった。
炊飯器でご飯🍚を炊いてオカズを作って皆んなで食べるってゆ〜レース生活は結構楽しかった。
1996年をもってレースを引退。
以後、2016年くらいまで全くレースの情報は入ってきてなくて、まさか2ストのレースがなくなってるとは思いもしなかった😱
更にまさか自分が22年の時を経てバイクのレースにリターンするとも思ってなかった😅
でも… レースやってみたらめっちゃ楽しいんだよね。 だからなかなかやめれないで現在に至っております😅
自分が走っている間はライディングに悩みを持つライダーなどに俺が教えられる全ての事を出そうと思ってます。 こんな俺にでも出来る事があれば少しでもレース界を盛り上げたいと思ってるんで、今後とも宜しくお願いします。